キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

帰り道のあて

酩酊していつもさよならしてる

律儀すぎる頻度で手を振る

じぶんが今、ここにいないことが不安だ

 

日が落ちるころから

ちょっとおかしくなるのはいつものこと

 

ぼくの棲むマンションにだんだんひとが帰ってくる

ヒールの音高く、くたびれた歩調

ちぐはぐな五線譜 抱きしめてやりたいなあ

夜のうえから

朝が降りてくるわけでなくとも

ついつい見上げてしまうのはなんで

すれ違うときのつくり笑いくらいでちょうどいいか

 

どこへもゆかなければ

帰り道の心配はしなくていい

どこへもゆかないから

もう帰り道のことは忘れさせて

ほしいだけさ

 

酩酊していつでもさよならできる

おだやかな温度できみをおもいだせる

黙って座って待っていればいい

ぼくを殺しそこねた11月が行って

12月が首を絞めにやってくるだけのこと

 

 

  

お仕事お仕事

どうでもよいことをどうでもよいままに書こうとするのは気恥ずかしいことだ。ついついお化粧をほどこしてやりたくなり、いわでもの修飾やとってつけたようなエピソードで厚く塗ってしまう。何もない日であれば何もない日でよいのだ。何もない日を何もない日としてきっちり書き上げるのが、本来的な物書きの腕なのだから。

 

と、「おまえ昭和かぶれかよ」みたいな冒頭でしたが、ぼくの腕はせいぜい酒を咽喉へ流しこんだり、たばこに火をつけるくらいの働きで満足しているようなので、それはそれで幸福なことである。

 

最近、ひさびさに風俗の女の子としゃべるようになって懐かしくおもったのが、彼女たちは(比較的健全な風俗も、そうでない風俗でも)今昔問わず、なぜふたことめには客の職業を知りたがるのだろうか、というその一種独特の生態だ。

おとといくらい、朝の定食屋で自分なりにぼんやり考えていたら、いちおうの答えらしきものにたどりついた。一、単純に話の起点もしくは接ぎ穂として。わかりやすい。とてもわかりやすい。一、その客を見覚えるための認識の紐付けである。これまたわかりやすい。出身地や年齢なんか聞いたって、よっぽど同郷、同年でもないかぎり次回には忘れちゃうだろうし、その点職業ならまぎれがない。

誰だってそうだろうけれど「~さん」だけではなかなか覚えられないものだ。「~の~さん」は、普通、「~の友だちの~さん」とか「~のイトコの~さん」「~の後輩の~さん」のように関係性をメインに記憶することが多いかとおもうが、ふたりっきりの短距離走ではそうもいかない。なんだか妙に納得した。かくてぼくは後顧の憂いなく運ばれてきたミックスグリル定食を食べた。でもやっぱり味噌汁とサラダは食べきれなかった。

余談ながら、定番の「お仕事なにしてるんですか」「なんだとおもう?」というやりとりを経て「詩人」と一発で当ててきた猛者がいたことをご報告しておく。どう考えても「詩人」はノーヒント、ピンポイントで出てこないだろう。なんだ、きみは知り合いか。それとも、むしろきみも詩人なのか。

 

どうでもよいことをどうでもよいままに書いてしまった。

けれど、きょうはどうでもよいままに擱筆しようとおもう。

いいじゃん、「入江相政日記」だって、日常の中身はちがえど、テンション的にはこんなかんじだ。たぶん。

 

 

 

バウムクーヘン

ねむりが浅いのでいろんな夢をみる。

「鳥は飛べる形/空を飛べる形/僕らは空を飛べない形/ダラダラ歩く形」と歌うハイロウズのうしろでケーブルを八の字巻きしていたり、みながゾンビ化した街を逃げ惑いながらついに観念し、どうせならゾンビである元恋人に殺されようと彼女の前に身を投げ出したら無表情にスルーされたり、知らない田舎の旧家で遺産相続の話をしていたり……まったくもってとりとめがない。ああ、そういえば今朝は歯が10本くらい抜けた。夢占いを信じられる体質なら、ちょっとよろこぶところだ。

 

ドーナツの穴は欠落か喪失か、みたいなことを高校時代よく考えていた。ハイデガーの悪しき影響、というより、ただ単純にいきがっていただけである。無い、というのと、無がある、はちがうよねーみたいな脳内ひとり二万字インタビュー、イン、放課後のマクドハッピーセットのハッピーとはなんぞ、で盛り上がれる友人をもたなかったことは逆にしあわせだった。というかお前、せめてミスド行けよ。

 

甘いものはすきじゃなかった。コンドームに穴が開く確率ってどれくらいなんだろうって本気で心配していた。女の子からの返信が3分以内じゃないと苛立つくせ、それに10分は時間を置いてから返すのがクールだとおもっていた。ハタチそこそこでアメリカツアーをすると信じ込んでいた。昼休みに日本酒の四合瓶をのんで五、六限はずっと寝ていた。マルボロライトの味がすきだった。

 

高校一年生の終業式のあと、ひそかに恋焦がれていたHさんを呼び出して告白をした。あっさりふられた。クラスの中心にも周縁にもいない、過度に目立たないかわり「その他大勢」でもない、だれからも「心根のすずやかなひと」とおもわれるようなひとだった。どうも、ぼくは、こういうところに弱い。

 

日常的に酒をのむようになった。マイヤーズ。オルメカ。強ければなんでもよかった。木屋町ですごす夜がふえる。ちょうど家を出たこともあって、めちゃくちゃだ。家賃15000円の、うそみたいなボロいアパートで、バイト、酒、バイト、酒、以下略。部屋にあったのは窓だけだった。あのときがいちばん狂っていたとおもう。額面どおりの意味ではなくて、狂おうとしなくてもそこそこ自然に狂っていた、ということだ。

 

気がついたら大学に進んだ先輩とつきあっていた。とある商店街の美人姉妹の姉のほう。

ああ、なんかよくわからんけど、このまま落ち着けるんだろうな、と、おもった。お母さんにのみに連れていってもらったり、おうちでおばあちゃんのごはんを食べたりした。着々としあわせらしきものが、予測できる未来が近づいてきているように感じられ、そこでぼくはトチ狂う。若いからどうこう、とか、そういう問題以上に、安住の地が目に見えてきたことにものすごい拒絶反応を起こしてしまったのだった。

 

年輪を重ねたところで、その悪癖はいまだ治っていない。

仕事でもそうだ。ある程度評価されて役職をもらったりすると突然ぜんぶ捨ててしまいたくなる。偽悪的か、露悪的か、ねじまがった自己愛が自分の首を締め上げる。「おまえはもう充分しあわせを甘受しただろう?」って。

あからさまに他人を傷つけ、自分の築いてきた信頼をも失い、しかしそれをよしとする、完全にやり方がおかしい。笑えない程度にはおかしい。

けれど、そうじゃなきゃいけなかったんだ、と、そのときには思考(というよりは感情か)が頑迷であるのも事実だ。

 

ドーナツの穴は欠落か喪失か。

 

はじめからそこに無があったのか。

それとも、無いのか。

 

 

 

フライングマン

息がすきとおるような夜に浮かんだ

からだのバランスがおかしい

あのゲームの、あのダンジョンで、あいつに毒された十字キー

高く売りつけてしまいたい情けない鬱屈、ひのひかり

名前をつけてくれたのに

もう呼ばれないと知るさみしさよ

心細くていいから

この冬とダンスを

せめてものダ、ダ、ダンスを

 

きみたちを別に侮っているわけじゃない

けれどおなじ目線じゃことばが伝えられない

嘘つきだよ、それなりに世にはばかる

とはいえ

やさしさだけなら傷はつかなくとも話の落ちは変わる

 

一行をずっと探していたんだ

どこかでまぎれてしまったまま

夕方の知らない帰り道にとてもよく似合うかんじの

愚かさや怠惰、ことばじゃないが

大人じゃないな、そのままじゃないか

 

いつでもそんなふうに消えてゆくから

心配しないでよ、安心してよ

ぼくはずっとぼくのままだから

血と肉

おおいなるかなしみ

善なるこころ

うちなるちから

えいえんのしもべ

 

息がすきとおる

夜は誰かのことを見てる

心細いダンスを

心細いだけのダンスを

ドラムロールが鳴り響く

どれだけ仲間を集めたところで

祈りなんてコマンドはいつまでたっても出てきやしないんだ

 

 

 

ドラマ

こころをきれいに保つのはとてもむつかしいことだ。

ときどき、おがくずをまぶしてやったり、枯葉でそっと隠してやったりしないといけない。なんとなれば切りつけてわざと血を流す。泥を塗りたくる。何度となく埋めて、いくたびもその墓をあばいて、まだ新鮮なやつを引っ張り出してくる。そうでもしないと、こころはほんとうに死んでしまう。すくなくともぼくの場合は。

 

こころそのものが本来きれいなものか、あるいはきれいであるべきか、それはわからない。そもそも、きれいってなんだ。ピカピカ光っていればいいのか。けがれなき色艶をのっけているものなのか。ふれたとたんに消えてしまいそうな、はかなさと美しさをこねくりまわしてなお言語化できない透明のようであるべきか。

さて、どうだろね。ぼくの守護天使はこの話題にはあまり興味がないらしい。したがって、ぼくもそれ以上筆を進めることができない。

 

もうずいぶん前におもいついた自分のキャッチフレーズで「飲む、打つ、かわいい」というのがある。

ひとつめはそのとおり。みっつめについては、ただの地口落ちのニュアンスだ。かわいいかどうかの判定は読者諸賢ならびに後世の諸君にお任せする。

ところでふたつめ。ぼくは将棋は指せても、囲碁は打てない。クスリなんてものも打ったことがない。博打?せいぜい、むかし競馬をすこしかじっただけ。パチスロは1回で飽きた。

 

それならいったい、なにを打っているのだろう。

 

牽強付会のそしりは免れまいが、どうやらぼくはずっとビートニクにあこがれているようだ。命名の由来に諸説あるうちの一、すなわち「beated」=「打ちのめされた(世代)」。へんなひとたちだった。移民、セクシャル・マイノリティ、アルコール依存症、薬物中毒などといった個人に帰結する要素を別にしても、グレイテスト・アメリカのなかで呼吸がしづらくなった中流階級以上の若者たちの多くが詩人になった。

 

ぼくはきっと、打ちのめされたくって、生きているのだとおもう。

いま、日本において、社会の閉塞感はもはや大きな物語になりえない。加えてドラスティックすぎる言い方かもしれないが、大災害や大事件よりか、まだあのころ、「9.11」のほうが(ほぼ)部外者であるはずのぼくらにとってはまだしも共有しうるストーリーだった。なぜか。個人メディアの発達、一億総発信者時代。ひとりひとりのたどっている小さな物語の、もしくはその集合体の先にだけ(あるとすれば)ドラマが。

 

さあ、そんな2016年に、幸か不幸か表現することを選んだぼくは、どう打ちのめされようか。

きっとそういうことをずっと考えているのだとおもう。

フェアなやり方でないのはわかっている。

けっして美しくもなければ、はかなくもない。ただただ露悪的なだけだ。

 

「飲む、打つ、かわいい」

裏返せばぼくは自分が打ちのめされるために自分に鞭打っている。とことん汚い方法で、言い訳だらけの文脈で、誰もしあわせにできない情念で。

 

でもねえ。

ぼくはどうしてもドラマになりたい。

ドラマを目撃したいのでもつくりたいのでもなく、ある種ばかげた壮絶さを脇に抱えた、ドラマそのものになりたいんですよ。

 

 

 

男子三日会わざれば生きたり死んだりする

11月23日未明、泥酔してケータイを失くした。

DDでそうとうばかなのみ方をして、途中隣り合った女の子があんまりかわいかったから、わが頭のなかのミトくん曰く「いいぜ、このままいっちゃおうぜ」(※空中ループのアルバムへのコメント)モードになってしまう。気がついたらカウンターに突っ伏していて、その子はもういなかった。悔しいから閉店までまた酒をのんだ。

そのあと木屋町河原町をふらふらしながら、しばらく夜の明けるのを待った。さすがに風俗にはいかなかった。やよい軒に入ると、テーブル席にバーのオーナーや常連客がいた。「よう!」と赤い眼鏡越しにあいさつされたけれど、ぼくはもうべろべろで「どうも…」とまるで「聖の青春」の松山ケンイチのようにしょぼくれて彼らに背を向けて座った。ハンバーグ定食を食べた。サラダと味噌汁は残した。もともと無理筋なんだ。6時か7時か、タクシーに乗った。ぼくのケータイはまだこの地上のありあまる富や喜びのなかにいるだろうか。

 

11月23日夕刻、泥のような二日酔い。竜王戦をTSで観ながら焼酎をあおる。きのうの別嬪さんのことがまったくおもいだせない。顔も、なにかしらの情報も、ぜんぶ。でもたいていそういうものだ。そういうものだということにしている。

迎え酒はビールに限る、といったのは山口瞳で、それには完全に同意ながら、ぼくはあのひとのことがきらいだ。被虐妄想、振り切れない正気と狂気の自家撞着、そしてなにより小市民を代弁したがるくせパトロナイズへの憧憬を抱きつづけたところ。きらいだ、というためだけに著作は20冊以上読んだ。そもそもこれだと作風や作品の内容ではなくてほぼ本人の人間性に対する批判なのでぼくの動機もたいそう不毛だが、最低それくらいの覚悟をもってしなくては赤の他人を「きらいだ」などと言える資格はない。と、これはあくまで私見、偏見。ただ、山口瞳の随筆は良作が多い。というより、よい作家だ。きらいなだけだ。宜しく候。

 

11月24日未明、寄せては返す頭痛と、相変わらずの胃・十二指腸の反乱。単体ならまだしも、コンボでくるとしんどい。4時に目がさめてから12時ごろまで、冷凍マグロのごとく横になるか、さもなくばトイレの神さまと化す。間断なくどこかしらが痛いというのはきつい。映画を観にゆく予定だったがキャンセル。午後、洋ちゃんがわざわざ伏見からうちまでやってくる。なんだよ、愛かよ。すまない。ありがとう。

ほとんど一日寝てすごす。20時過ぎ、そろそろ小康。スーパーで野菜の煮物を買って食べる。ふたたびねむる。

 

11月25日未明、身体はすっかり元気になった、といいたいところだがまだ嘔吐はつづく。どうせしんどいのだから酒でものむか、と焼酎。これが(たとえ一時的でも)妙手であって、たいへん楽になる。おそらく、肉体的にどうこうというより、精神的なものがまぎれるほうがぼくの場合大きい。昨夜やっていた、山口(恵)女流二段出演のゲーム番組(ニコ生)をTS視聴。高橋名人といえばやっていたなあ冒険島。わたしは清く正しい後期ファミコン世代です。

 

最後に、洋ちゃんがこんなことを書いてくれたので、尻馬にのって募集しておきますね。

それではごきげんよう。

 

 

 

 

あたらしい世界じゃなくても(3)

11月19日、「聖の青春」を観た。

個人的な好みは措くとして、あだやおろそかにできない映画、という感想である。

そもそもキクチは映画通ではないし(DVDやネット上で年間30~40本程度、といったところ)特段自分のなかに体系立った”映画観”のような評価軸をももたない。すきか嫌いか、というそれのみだから。

それゆえか、また気持ち悪い将棋ファンだからか、「田中章道」「田村壮介」「遠藤正和」といった役名の小ネタ(?)や、故・河口先生や故・真部先生の風貌に似た棋士(台詞もとくにない、端役的な扱いではある)をみつけてはキャッキャしていた。キャッキャってなんだ。32歳なめたらいかんぜよ。名人になったら土佐の中村に引っ込むから教えを乞いにきなさい。あ、ちがった、それ森違いでケイジ先生や。村山先生は名人になって早く引退したい、だった。ぼくは早くお星さまになりたい。死ぬとかうんぬんかんぬんではなくて。比喩として。叙情として。あるいは韜晦として。なるべくきれいで、弱々しい光のやつ。

 

京阪電車でゆっくり家に帰った。

大学生がたくさんいて、彼らの醸し出す、なまぐささ、みたいなものはきらいじゃない、とおもった。

それから夕方にかけて、酒をたくさんのんだ。気持ちよく酔っぱらって、ねむった。

 

翌日、夜中につらい話があった。ぼくはばかなので突然「風俗にいこう」とおもう。脈絡はない。脈絡などあってはいけない、とおもったので。午前5時前に木屋町について、小一時間を焼鳥屋のカウンターで捻りつぶした。ビールの味がしない。そもそもプレミアムモルツはきらいだ。ガラケーで日の出を調べてみたら6時32分だった。6時から開くじゃん、と、ちょっとばかし笑った。

 

敵娼は22歳というからきっともうすこし上かと邪推したら、どうもほんとうにそのようだった。ひょんなことで、ミュージシャンだと知る。共通の知人の話でなぜか盛り上がってしまう。午前6時の風俗店で、お互い裸で、関西の音楽業界の未来を話し合っているのがふしぎ。ふいに「ユキちゃん」という曲をおもいだす。ん?エミちゃんだったか?ぼくの記憶中枢はまったく働いてくれない。

帰宅。なんだかやりきれない気持ちになって、またしても酒をのむ。詩を一編。焼きそばを食べてぜんぶ吐く。歯磨きをする。そしてまた酒をのむ。なぜかタクシーを呼んでまた木屋町へ。二度目の風俗。今度の子は褒め上手だった。幸あれかし、とおもいつつ、もう自分で自分のことがよくわからない。自分という人間を理解できないことはそこそこあるけれど、自分の行動を言語化できないなんてそうとうひさしぶりだ。

 

そして気がついたらまた「聖の青春」を観ていた。

12時40分の回。

今度は、中盤、三段リーグ最終節の描写になるまえに、耐えきれなくなって席を立ってしまった。

 

いつも死んでしまいたいとおもっているし、狂いたいとおもっているのに、生きているし、すくなくとも狂っているとまでは判じえないし、なんとなく、手の届く安心ばかり買っているような気がしている。

 

これを書いているいまも、風俗によくある種類のボディソープのにおいがする。

ぼくはばかで、詩人で、アル中で、32歳だ。

それ以外のなにかしらはあまり必要としていない。

one of them、みたいな。

孤独だけがやけにやさしく響いてきやがるので、もうちょっとくらい、つきあって齢をとってやりたいとおもう。