キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

悪魔がきたりてぴーひゃらら

kntr.world-scape.net

 

先日、うさんくさそうな音楽業界のひとが「10人も動員できないバンドマンは辞めるべきだ」的なアオリのブログ記事をアップしていた。そのひとのプロフィールやふだんの発言があまりにうさんくさそうなのが原因なのか、炎上商法狙い見え見えじゃーんと多くがおもったか、初動ではそんなに燃えていなかったけれど、わたしのこころをちょびっと暗くさせたのは事実である。

 

なお当該記事はタイトル、アオリだけみると「動員の少ないバンドマン批判」におもえるのだけれど、実際に中身を読むに「実動員が少ない(チケットノルマ以下な)のに、ノルマをライブハウスに貢ぎつづけることによって、企業努力の足りないライブハウスが生き残ってしまう。もし動員の少ないバンドマンが活動をいっせいに止めたら、そういう店は滅び、よいライブハウスと将来性のあるバンドが残り、インディーズシーンが活性化する」みたいなことだとおもう。なにぶんキクチのトリ頭でまとめたので、正確さはNaverくらいだとおもってくだされ。こけこっこ。

 

これ、ちょうむずかしい問題だ。

まがりなりにも8年間ライブハウスで働いていたわたしなので、現在の立場はまだしも考え方にバイアスがかかっていない、とはいえない。

ただ「ちょっと待てよ」とおもったのである。

 

「よいライブハウス」とはなにか、といわれて、正解など出てきっこないのだ。

 

音響がすばらしい、照明がいかしてる、アクセス至便、スタッフの態度がよくて、お酒は安くてフードもそれなりに充実していて、分煙(禁煙)、逃げ場所もほどほどにあって、トイレはきれいで室数に余裕あり(もちろん男女別)……「それらしい要素」を挙げていけばきりがない。バリアフリー、託児室がある、万が一の事態のために医師が常駐……書いていて、ちょっと自分でも笑えてきてしまったのだが、もちろん、いまおもいつくままにつづったような事柄は、そりゃ、そうであるにこしたことはない。ただ、当たり前のことですが、そんなライブハウスが実在するとして、それはどう考えても街中のキャパ~300人程度の店ではない。物理的問題から、もっとオオバコになる。インディーズシーンの話ではなくなってくるのだ。

 

もう一度考えてみよう。

たとえば、あるライブハウスのよさが語られるとき、もっともよく聞くのは「音(をふくめた設備・環境面)がいい」「スタッフ(のキャラや接客態度、スキル等)がいい」のふたつではないだろうか。

これまた当たり前っちゃ当たり前なのだが、ライブハウスはディズニーランドではない。あくまで音楽を聴きにいく、音楽や音楽人とかかわる場所である。その意味で、先述したほかの要素(美点、といってもよいだろうか)は大事ではあってもあくまで従のはずだ。「あそこは駅から近いからいいライブハウス!」「あそこは完全禁煙だからいいライブハウス!」なんて言ってるお客さんがいたら、わたしは嘴でお尻をつっついてやりたい。こけこっこ。

 

もちろん企業努力や(出演者ふくめた)お客さんへの愛、というものはとっても重要で、トイレの数を増やすことは物理的・金銭的にむずかしくとも、日々きれいに保つ、とか、車いす視覚障害のお客さんや小さいお子さんが来られたときの対応をスタッフに周知する、とか、やれることはたくさんあるんですね。

だからこそ「あそこは狭いしアクセスもあんまりよくないけど、とにかくスタッフが笑顔でよく気がつくからたのしい」「あそこはフードメニューがないし椅子席がなくて疲れるけど、とにかく音がめちゃくちゃいい」みたいな文脈で語られるケースも多々あるわけだ。そして、そういうライブハウスの多種多様さというものが、その街のインディーズ文化をかたちづくってゆくのだと、わたしはおもっている。

なので、「ぼくのかんがえたさいきょうのらいぶはうす」みたいな理想をぜんぶぶちこんでしまうと、どこもおんなじになるじゃん、って話で、それはなんとなく味気ないなあ、とおもう。

 

ただ、大好きなバンドのライブを観に行きたいのに「あそこは煙草くさくなるから……」「あそこには子どもを連れていきづらいから……」といった理由で躊躇、または断念するお客さん側のくやしさ、みたいなものも理解はしているつもりです。みんなちがってみんないいんだからいいじゃん、といって終わらせたいということではない。けれど最終的にはお客さんも店側もひとつひとつ選択するしかないのも事実だ。全員にやさしい場所、というのはありえないし、万が一ありうるとしたらそれは「誰にもやさしくない場所」なのだから。

 

あれ、なんか長々と書いているうちに、こんがらがってきた。トリ頭は三連くらい書くといろいろ忘れるのだ。

 

言いたいことは「みんなにとってよいライブハウス」なんてないのだよ、ということ。

同時に「みんなにとってダメなライブハウス」も、まずない。99%ない。日本のどこかにいくつかはあるとおもうんだけど、噂はともかく実際に見聞していないのでにゃんともいえない。あるとしたらそれってもはや犯罪スレスレなレベルのダメさな気がするけれど。

 

ともあれ。

ライブハウスの生き残り合戦なんかしなくても、滅びるところは滅びるし、ぎりぎりのラインを踏み越えて存続しつづけるお店もある。強制的にフォアグラをつくったっていいけれど、なにもそれで揃えなくていいじゃないか。放し飼いのトリがいてもいいじゃないか。などとバイアスのかかったキクチは甘っちょろいことをおもい、やけくそ気味にこけこっこ、と鳴くのだった。

 

最後にひとつおもいだした。

「惜しまれながら閉店」するライブハウスの閉店理由によくあるひとつは、近隣からの苦情である。お客さん(出演者の場合もある)が外でたまる、さわぐ、ゴミを散らかす、等々。

まずはこういうところから議論をするのもいいんじゃないかしら、とおもうんだけれど、どうでしょう、海保けんたろーさん?

 

 

 

自分の感受性くらい

詩人です、と自己紹介すると「感受性が強いんでしょう?」「感性が豊かなんですね」などと返されることが多い。どれくらい多いかといえば雨の夜にセンチメンタルになっちまう男の数くらいさベイブ。適当にいいました。

 

個人的には、まったくそんなことないんだけどなあ、とおもう。すくなくとも自分に関して、感受性や感性がとりわけひとより敏感にできている(これもへんな表現ですね)ようにはみえない。むしろ、ぼーっとしている。世界に対してわりと興味がないのだ。

なので、たとえばきれいな花を見て「わあ!きれい!」と嘆ずることも、「なんて花なんだろう」そう好奇心が刺激される、ということもない。「きれいだね」「花だね」でおしまいである。

……われながら「やばい、こいつ、そうとう頭がおかしいとおもわれる」危機感をおぼえてはいます。

 

たぶん、詩人にもいろいろあって、わたしは原則的におのれの感覚を信じていないのだ。なにかをうつくしいと感じたりすることが不得手だ。そのかわり、それがうつくしいということはわかる。そしてそのうつくしさを他者に伝えるすべを持っている。もう一歩踏み込んでやや偽悪的にいうならば、「あなたたちはこういううつくしさがすきですよね」というセンサーに近いものが頭のなかにあって、うつくしさを拾いながら詩を書いている。

 

自分自身の感情についても、うれしい!たのしい!だいすき!といったものが素直に出てきてくれない。むかしはそうでもなかったのだが、気がついたら30歳くらいの地点に置いてきてしまった。今ならまだ取りに戻れる程度の距離なので、とりあえず日に日に遠ざかってはいるけれど、ときどき振り返ってみる。

 

なんとなく、目がさめてねむるまでのワンセット単位でただよっている、というのも大きいようにおもう。わかりやすくいうと「きょうは死ななかったね。じゃあおやすみ」というわけで、「明日は何々をしよう」とか「何歳までにこれをしたい」とか、そういう発想が(仕事は別ですよ)ない。うん。一瞬乏しい、って書きかけたけどこれは、ない、が正しい。

喜怒哀楽というのはやはり積み重ねのもので、たとえば達成感とか、フラグ回収とか、振幅のあるドラマがうまれるのは、やはり中長期的なタームのうえにである。ああ、どうも、一夜限りの自分を生きているのだ。

かつては、「子どもが生まれたらどんな名前にする?」みたいなことばかり話していたのですけどね。

 

さて、ひさびさにブログを書こう、とおもいたったものの、想像以上に暗い話になってしまいました。

現在地はここらへん、ということで。

明日突然わたしが意識の高いアルファツイッタラーみたいになってないという保証はない。

 

もっとも、繊細すぎたがゆえ自分から防護壁をつくったのだ、そんな解釈が後世のキクチ研究家によって提唱される可能性は否定できない。ていうか、むしろ、提唱して。

 

そのまえに、もうちょっと自分の感受性とくらい、仲良くなるべきだよね。

 

 

 

3月のライオン

日記を書くのはずいぶんとひさしぶりですね。長いことぼんやりしていた。とある締切まで3日を切り、先方はやきもきしているかもしれないけれど、まあ、なんとかするのがわたしですよ、とえらそうに言ってみる。それはさておき。

 

レイトショーで「3月のライオン」前編を観てきた。

 

 

以下、部分的なネタバレを含むため、このあと鑑賞予定の方はご注意ください。

なおあくまで前編としての感想です。当たり前のことながら、この一作をもって「3月のライオン」という映画(前後編)を語れるわけがない。

 

 

ひとことでいうと、重たかった。

2時間強はそう驚くような長尺ではないけれど(なんせ、ぼくは「七人の侍」だって「セデック・バレ」だってまるっと観れたのだ。DVDとはいえ)体感としては4時間近いような。シーン自体はぱつぱつ切り替わりながら進んでゆく。なのに。

重いのは、単純に内容だとおもう。

 

でもそこはなんとなくわかるような気がした。

 

光をあててうまれる陰翳、あるいは影の落ちた場所から見上げた明るさ、そういう対比が背骨になっていて、前編はとくに桐山くんの生い立ち、現在地を「家族」「他人」……うーん、もうすこし正確にいえば「家族のような他人」と「他人のような家族」の縦糸横糸で編んでゆくさまを見せることに重心が置かれていたように、ぼくは感じた(もちろんそこは原作でも描かれている部分だが、比重の問題として)。

 

 

なんてまじめに書いたものの、上映中のぼくは「わー!久保王将が封じ手開封してるー!」「幸田―桐山戦のとなりは佐々木大―高野智戦ですか……!」「門倉先生が新人戦ベスト8だー!ていうか門倉―二海堂戦だ、たーのしーい!」「田中誠指導棋士がお好み対局だよ……六段だよ……!」「タナトラ先生の立会と梶浦名記録係って、なんとなく既視感があるようなないような…」とかに目が釘づけになっていたことも否定できない。

 

 

ほぼほぼ原作に忠実なつくりではあるけれど、いくつか時系列を変更している箇所もあり、それでゆがみが出た気がするところも(勘違いだったらごめんなさい)。

 

 

たとえば、桐山くんが幸田家を出るのはプロになった中学3年生のとき。原作ではすでにその数年前に香子と歩は幸田(師匠であり父親)によって奨励会を退会させられている。映画版ではその通告を受けたその日に桐山くんが「(家を出てくという香子に対し)ぼくが出ていくよ」と言う。その前段に「零に勝てないならお前たちは無理だ。初段になればこれ以上の相手がごろごろいるんだぞ(大意)」ということばが幸田から2人に告げられる。しかしこれって、ちょっとおかしいのではないか。

ここから2人は奨励会級位者だということがわかる(おそらく香子が1級)。原作だとそのころは桐山くんもまだ奨励会員だから筋は通るけれど、この映画版だと、いわば「プロの四段に勝てない現状で、奨励会初段にはそれより強いのがごろごろいる」という理屈の通らない話になってしまう。もしかするとそのあいだにタイムラグがあったのかもしれないけれど、ぼくは映像で観たかぎりでいうとそれがひとつながりの時間軸におもえた(香子たち退会勧告される→香子激昂して盤駒など叩き割る→そのまま「出ていくわよ!」桐山「ぼくが出ていくよ」)。

うーん。

 

 

それから、マナーの話。

まず、ぼくの態度を明らかにすると、映画は創作物であり表現なので、なにも実際の将棋界に忠実である必要はない。むしろ、脚色、潤色や誇張、演出があってしかるべきだ。細部まで現実に即するのであればドキュメンタリーでいいじゃん、というスタンスである。

しかし、ひっかかったのは二点、3シーン。

まず冒頭、幸田―桐山戦の終局時、幸田「ああ…ないのか…負けました」に桐山はお辞儀をするだけ。これは原作でもそうなのだけれど、原作は漫画なので、コマとコマは必ずしも連続性を持っているわけではなくって、つまり描かれてはいないけれど桐山も「ありがとうございました」と言ったであろう、と読む解釈の余白が残っているわけです。

さらにこれは映画オリジナルだけれど松本―桐山戦もおなじく松本「負けました」、桐山「ハイ」。これらいずれも、子ども将棋大会とか、道場でのアマ同士では(それでもマナーに悖ることはまちがいないが)なくはない情景。映画だから、連続的な映像として見ているとき、正直「桐山くん、きみ、プロ棋士としてかなりそれサイコパスだけどだいじょうぶ?」っておもってしまったのはいなめない(仮に、「負けました」のあと一瞬でも別の映像がうつったりすれば、いったん流れを切れるので解消できるのではないかな、ともおもう)。

そしてもうひとつは新人戦決勝、桐山くんが飛車を打とうとしたとき、島田さんや二海堂のことばをおもいだして自重するシーン、手の中に飛車を握り込んで黙考するのだけど、これも反則とまではいえずとも初歩的なマナー違反(持ち駒は常に相手に見えるように)ではあるので。もちろん直前まで打とうとしていたわけで、相手の山崎五段もそれが飛車だってことは当然わかっているだろうけれど、演出上、やったらめったら長く持っていたので、気になってしまいました。

 

 

そういえば、新人戦決勝は、「昭和初期の名人戦かよ」みたいなシャビーシックな建物で、観客(?)も着飾った和服の姐さんや大企業の社長みたいなひとたち、将棋というよりは「カイジ」とか「哲也」あるいは「嘘喰い」の世界、みたいなかんじでした。なにより椅子対局だし。とはいえ(逆の意味でですが)将棋らしくない対局場の設定や演出は現実にドワンゴがいろいろ試行しているので死ぬほど違和感があったわけじゃないこと、プラス原作では関西将棋会館が舞台だったけど、これ仮に現地を借りて撮影しても、将棋に興味ない層からすると東京の将棋会館と一緒じゃーん、って話になるので、それはそれでありだとはおもう。ただ、新人戦(モデルは「新人王戦」)って作中での描かれ方もふくめ公式戦なので、非公式戦、お好み対局とはちがう。建物(洋館)的に仕方ないかもしれない、しかし、そこで椅子対局はちょびっと微妙だったかなあ…とは。囲碁かよ!チェスかよ!(※将棋でも公式戦以外で椅子対局の前例はありますし、女流棋戦ではたとえばマイナビ女子オープン予選が現在もそうです)

 

 

それとラストの獅子王戦、これは番勝負制じゃなくなったのか、すっとばして(原作では)第4局までいったのかちょっと判じえなかったけれど、桐山くんがやっぱりちょっと演出過多におもいました(いや、すごいわかる、すごいわかるんだけど)。だって、まだ終局してないのに大盤解説担当、しかも大先輩の柳原棋匠をほっぽりだしてドタドタ走ってって(もしかしたらまだ対局中かもしれない)対局場に雪崩れこむの。結果的には終局してたのだけれど、まあ、ふつう、いくら17歳といえどプロの五段は絶対やらない(やれない)ことだから、というかそもそもそのまえに島田側の妙手を発見した桐山くんが「ぼくは~」「(島田八段の駒は)死んでない~」と絶叫するのも、現実でもしあるとすれば、うーん、たとえば「私はまだ島田先生の駒は死んでいないようにおもいます」くらいがふつうではないかしら。むろん、先述のとおり、演出でいいんです。そんなこというとそもそも二海堂の「桐山ー!!」もテレビ解説としてありえないし、なにしろ録画の放送なのでそれをそのまま放映していることもふくめ二重におかしいからね。とはいえ、棋界最高峰のタイトル戦の雌雄が決する場所に、いくら同業者、プロ棋士といっても(その会場内を)ドタドタ走って駆けつけるのは、うん、ない。これはマナーよりモラルというか、そういう範囲のことかもしれません(映像なのでよけい増幅されてるとはおもいます)。

 

 

二海堂は措いておきましょう。

あれは原作でもツッコミどころ満載すぎます。

 

 

あ、よかったな、っておもうのは、原作では桐山くんと川本家(あかりさん)との出会いのもととなった「悪い先輩に(未成年なのに)飲まされ潰された事件」、あれがうまいこと収束してましたね。映画ではあくまで、その日、師匠で育ての親である幸田に勝った罪悪感にかられた桐山くんが勝手に酒をあおったことになってます(そしてそれがささやかな伏線としても働いている)。原作だと、うがってみれば「将棋のプロ棋士にはそういう悪い先輩もいるの?」って(もしかしたら)おもう方もいらっしゃるかもしれませんけれど、映画版ではそこは完全セーフです。ここは連盟ファンのキクチ、うれしき。

逆に「うーむ」だったのは、原作ではおそらく人気のない夜の路上で後藤九段が桐山くんを殴ったのが、まさかの元旦の朝か昼、大勢が行きかう神社だったところで。「将棋のプロ棋士にはそういう乱暴な先輩もいるの?」って。まあ、構成上、言うても詮無きことかな(後藤個人に関してはそののち名誉回復ターン?的なものがちゃんといいタイミングでくるのですが、イメージとして)。

 

 

さて。

つらつら書き連ねてきましたが、そういうところでいったん区切りましょうか。

またDVDなどで再度視聴すれば気がつくところもあるかもしれない。し、気づきたいとおもう。後編はどうやらオリジナルの展開らしく(原作が連載中なのでそりゃそうなんですが)、ちょびっとばかり、予告で目にしたそれが個人的には「あーん」というかんじだったので、観ないかもしれません。観るかもしれません。どうしたものかね。

 

 

それでは、長くなったけれど、「3月のライオン」前編を観て、キクチミョンサこと菊地明史がおもった第一印象をお届けしました。

またね。

 

 

 

夢の話

まだもうすこし

夜はねむっているから

はだかのまんま語っていいとおもうんだ

どんなに暗くっても

光はひかり

きみの名前とおんなじ

 

いつもの交差点のちょっとちがう側を渡ってみた

なんにも変わらなかった

なんにも変わらなかったけど

それが それ自体がどっか笑えた

 

泣かないで、とおもうひとばかり

泣いているのはなんでだ

つややかな嘘をすべりおちてゆく先には

もう誰もいないのにな

疑って疑ってまた歌があって

嫌んなっちゃうような春の一節

きっと、この低気圧と花粉症のせいだ

くしゃみをしたら鼻血が出たよ

 

ああ、夢に似ていて

誰かの夢にはなれないぼくのこと

 

流れたものはいつかとどまる

それが感情だとしてどういえばいい?

 

ああ、夢に似ていて、似すぎていて見失う自分をもう

両手で大事に掬って放ってやりたいとおもう

見た目には離れていても

白黒のラインを超えて

歌はとどくでしょう

 

ぼくはもうそろそろねむるつもり

でも

いつか帰ってくるはずの気持ち

みたいなかわいいなにかのために

 

明日の缶ビールも冷やしておかなきゃな

 

 

 

 

白と黒

世界が止まっても

ぼくらが止まっても

あんまり関係ないような

気がする、けどな、今すぐ

会いに行きたいんだ

交差点と信号の動力、新京極あたりの喫茶店で

いささかくたびれた顔をつきあわせてもいいじゃないか

うたえどもうたえども見世物になりきれないけもの

コーヒーは冷めてしまうだろうけども

 

横断歩道の上を小学生ぶりに白線飛んで歩いた

 

世界が終わっても

ぼくらが終わっても

だんまり貫く強情な正義とは

さよならしましょ、あとから痛みを

思い起こすだけの簡単なお仕事

日毎みごと綴るだけのよしなしごと

乳飲み子のごとく産まれいずる悲しみと愛に感謝

要するにぼくはきみに会いに来たんだ

 

 

  

「せかいのせなか」

 気がついたら戦争はおわっていた。

 いや、ほんとうに戦争があったのかどうかはよくわからない。そもそも、それを戦争と呼ぶべきだったかどうかさえも。

 事件、できごと、トピック、ともかく、なにかたいへんなことが起こって、それがおもっていたよりもあっさり終わってしまったということだった。

 ぼくと朋子さんは大きな物語のしっぽをつかまえられなかったポストモダニストのように魂のぬけた顔をして、鴨川の土手にすわっていた。

 ちかごろの行政はみさかいなしに護岸工事をしてけしからん、と有名な作家がぷんぷん怒っていたような気がするけれど、ぼくにはいったいどこからどこまでが護岸工事なのか判断するだけの知識がたりないので、ともあれ午後のくもり空のしたで面持ちとはうらはらに機嫌よくすわっていた。手持ちぶさたではあったけれど。

 ぼくたちのあいだにはコンビニの袋に入ったまま汗をかいている缶ビールが何本かある。

 立秋からもう一ヶ月以上経ったというくせ、背中にあたるよわよわしい日差しはまだじゅうぶんに夏のにおいをとどめていて、ぼんやりなにかをおもいだすくらいの速さでビールはぬるくなってゆく。傷を負ったひとの身体からゆっくりと血がながれだしていって、死へと近づくということは案外こんなかんじのスピードなのかもしれない。

「おわったねえ」

 うっそりとした目つきで朋子さんがつぶやく。

「おわったよねえ」

 なにがおわったのかはっきりとはしないまま、おうむ返しにこたえた。

 三条大橋の手前、鴨川の支流にかかる石橋をわたってすぐの日なた。四条のほうも、御池のほうも、みわたすかぎりだれもいない。橋のしたをくぐってすこし北へぬければ、芝生がまだあおあおとしている。

「むかしはここにもたくさんひとがいたのにね」

 詠嘆調のにあわないひとが、どことなくしみじみというものだから、ぼくはすこしあわてて足を組みなおした。そのせいで、さっきからぼんやりしていた目や耳が、ほんのすこしずつ明確に色や音をとらえるようになってきた。

 朋子さんをみる。

 茶色いセミロングの髪がなかばかくしている、右の横顔がすきとおるように白い。ふわふわの髪の毛。どうしてだか、ひどくなつかしいひとに出会ったようなかんじがした。なにかがおわってしまったことと、ぼくたちがそのなかでおわれなかったことが、なにかかかわりあっているのだろうか。三日月みたいなかたちをした朋子さんの目は、遠くをみているとき、とても凛々しくひかる。

「ちょりくんはさ」

 遠くをみつめたままで朋子さんがいう。

「置いていかれるの、きらいでしょう」

 ぼくはちょっとだけ首をかしげて、また前をむいた。彼女のほうからみると、うなずいたようにおもえたかもしれない。

 ひと呼吸ののち、わたしもきらい、と、朋子さんはくっきり一語ずつ区切るように発音した。

「置いていかれちゃったねえ。ふたりとも」

 そういうと、笑い泣きしているような表情にみえる。ひかりの加減か、角度の問題かもしれないけれど。朋子さんは隠しごとが親にばれた小学生の女の子みたいに、ちいさく鼻を鳴らしながら眉根をきゅっと寄せた。

 姿はみえないくせ、どこからか鳥の声がきこえる。ひわ。ほおじろ。るりびたき。ごいさぎ。ぶっぽうそう。知っているかぎりの鳥の名前を頭のなかでつぶやいてみる。頭のてっぺんからはじまって、右耳、ほっぺた、あご、それからまたほっぺた、左耳、時計回りにぐるぐる、ぐるぐるするイメージ。そうするとこのねじれた球体がだれかの大きな手のひらでぺしゃんこに押しつぶされて、うすっぺらい円形に変わってゆく気がする。

「世界ってことばがきらいだった」

 ひざを抱えたひょうしに、ふっと、そんなことをいってしまった。

「どうして」

 朋子さんもおんなじようなかっこうをして、こっくりとこちらをむく。右をむく、というより、左下へしずみこむ、という角度で。

「だってさ、世界って、鏡にうつらないでしょう」

 影がじりじりとかたちを変えている。もっと話して、というように朋子さんがうなずく。

 ゆっくりと、ぼくは一行ずつ川へ流すような感覚で声にしてゆく。

「世界をことばのなかへおさめることはできるよ。でも、おさめてしまったその世界は世界にはちがいないんだけど、世界がそれだってわけじゃない。ほら、きれいな夜空とかみてさ、ああ、ここからここまで夜空だなあっておもったってさ、それってしょせん自分の目にうつるかぎりの夜空だからさ、何歩か歩いてからまた見上げる夜空はさっきともうちがうじゃない。四隅がないものにむりやり四隅をつくってさ、それでわかっちゃって、共有できるんじゃないかとか、そういうおもいこみってすっごくばかばかしいとおもう」

 どうしてだか、しゃべっているうちに泣いていた。川風になでられた頬に、涙はあたたかかった。

 しばらくして、そうだね、だからわたしたち置いてかれちゃったのかもしれない、とひとりごとのように口にしてから、朋子さんはもう一度うなずいた。

「それじゃ、ここは世界の背中だね」

 

 それからすこしのあいだ、しりとりをした。

 すきな食べもの、は、つづけているうちにだんだんほんとうにその食べものをすきなのかどうかわからなくなってきたからすぐおわった。それでも、ひょんなところから飛びでてくる料理の名前が、なんだか十年ぶりに出席した同窓会で会う友だちみたいでたのしかった。いがまんじゅう、なんていつぶりにおもいだしたかなあ、と朋子さんはくつくつ笑った。

 次に、日本のバンド、を何周かまわしたところで自転車に乗った小鳥くんがやってきた。ピンク色のママチャリを石橋のたもとに立てかけて、ゆるやかな傾斜をくだってきた彼の手には中身の重みでしなだれたコンビニ袋がぶらさがっている。

「これ、兄やんにとおもって」

 そういってさしだしたのはサントリーの角瓶だった。

「わたしにはなにもないの?」

 朋子さんが頬をふくらませると、小鳥くんはおおげさに両手をふりながら、いや、姉やんにもとおもって、とあわてていいなおす。ぷん、とウィスキーのにおいがした。よくよくみれば、角瓶はすでにいくらか空いている。うすい日のひかりに見はるかされた飴色の液体は、かたむけるたびガラスのなかでとろりとゆれた。

「あ、まだ飲んではらへんやないすか」

 ぬるくなった缶ビールをみつけて、飲みましょうよ、と、すっとんきょうな声をあげる。あらためてのぞきこむと、ハイネケンが四本。小鳥くんはさっそく二本手にとって、ウィスキー買ってきたしこれおれのー、という。若いなれなれしい野良猫のような小鳥くん。ぼくたちは、むかしから彼のことがとてもいとおしい。

 三人で乾杯をした。なにに乾杯したらいいのかだれもおもいつかなかったので、とりあえず、しりとりの最後に出ていた、ミルクバーというバンドに対して彌栄あれ、と願うことにした。緑色の缶に貼りつけられた赤い星が汗にぬれてきらきらしている。

「ふしぎですねえ」

 最初のひとくちであらかた一本飲んでしまった小鳥くんが感に堪えたようにいう。

「ぼくら、こうしてすわってるとただの点みっつやのに、寝転んだら川の字になるやないすか」

 あまりにもまじめな顔でいうものだから、おもわずふきだしてしまった。

「そりゃあそうだよ。千にも土にもなるよ」

「いや、でもそれやったら無理なかっこうせなあかんやないですか。あくまでふつうに気持ちええなあってごろんてなっての話やもん」

 小鳥くんは生きているなあとおもう。なんというか、あらゆるものごとにおどろき、おびえ、やきもきしているかんじが節々からつたわってきて。

「でも」

 ぷしゅっ、と、あたらしいハイネケンのプルタブを起こしながら小鳥くんがいう。

「おわってまいましたねえ」

「うん」

 ぼくは足元の砂地から顔をだした雑草をいらいながらこたえる。

「おわってしまったね」

 朋子さんはぼくと小鳥くんのあいだで、また遠くのほうに目をやりながらビールをのんでいる。そのたび、白いのどがかすかに動いて、ずっと知っているはずのそのすがたがきゅうになまめかしい生き物のようにおもえた。

「なにか、はじまるんですかねえ」

 小鳥くんはこたえを求めない。いつだって彼にとってたいせつなのは、だれかにつたえるということであって、こたえを求めることではないのだとおもう。

「はじまるかもしれないし、はじまらないかもしれない」

 ふきわたってゆく風のようなそのことばに、ぼくはあいづちともいえないあいづちをうった。

「兄やんは、占い師みたいなことをいうなあ」

「でもねえ」

 親指と人さし指にすこし力をこめると、ほそ長い草はあっけなく途中でちぎれて、緑色の汁が爪を濡らした。

「はじめるためにおわったわけでもないだろうさ」

「ほな、おわるためにおわったんですか?」

「さてね」

 ほんとうに、さてね、としかいえない。未来というのは、それ以外、といってしまうほか形容のしづらいもので、たとえ明日のぶんだけ未来を忘れることはできても、明日がいつまでもただしく明日であるとはかぎらない。

「そんなこといってるとふたりともおじいちゃんになっちゃうよ」

 朋子さんがそういって、ポシェットからハイライトメンソールをとりだす。一本抜いて左わきへ置いたその箱へぼくは手をのばした。体育ずわりをした彼女の足の、三角形のすきまから。こちらへ押しやった指先と指先がふれる。ほんの、まばたきするようなあいだ。ぼくたちのたばこは、おなじ銘柄をしている。

 ふたすじの煙がふわふわと空へのぼってゆく横で、たばこを吸わない小鳥くんははやくも二本目のビールを空けて、いったんはぼくに渡した角瓶を手元へ引き寄せている。

「みんな、いなくなっちゃいましたねえ」

 小鳥くんはそういうと、ひどく厳粛な顔のままげっぷをした。やだあ、といって朋子さんがこころもちこちらへ身体をかたむけてくる。

「むかしはもっとたくさんいたんだけどな」

 そうこたえてはみるものの、実際そんなにたくさんのひとがここにいたのかどうか、いまとなって考えてみると、はなはだこころもとない。

「結局あれはなんやったんでしょう」

 小鳥くん。ぼくはたぶん、わかる。それがなんだったのかはわからないけれど、それはなんでもなかったのだということが、わかる。戦争や、事件や、できごとといった名前をつけてしまったが最後、ほとんどすべてがこぼれおちてしまうものだということを。ただ、それをだれかにつたえるための適切な表現をみつけられない。何日もねむりつづけたあとにベランダから見下ろす水たまりに似ている。類推はできるのだけれど、といった話。

「ようわからんくなりましたわ」

 ぼくはビールをあましたまま、小鳥くんの角瓶をすこし舐めた。たばこはひどくゆっくりと燃えてゆく。そのたびに、すこしずつ指先と熱が近づいてゆくかんじがすきだ。たまに、じぶんの指から自由に火とか煙を出せるようになったらたのしいのに、とおもう。きっとたいした役には立たないけれど、そういうのって、なんとなくおもしろがるに足る、とおもう。中身の想像のつかない創作居酒屋の品書きに似ている。

 小鳥くんはひとつ大きく伸びをしてまた話しはじめた。

「さんぼんがわの川って、さみしいっすね」

「さみしい?」

 朋子さんのたばこはあらかた燃えてしまって、彼女はそれをきゅっとつぶしてのみおえた缶に入れる。

「遠くからみたら仲よさそうやのに、ようみたらいっこいっこ全然ちがうやないですか」

 たとえばさんぼんがわの左側が、といってから、あかん、めんどくさいわ、と頭をかいた。

「仮に、左側を寺田くんとしましょう。で、まんなかが梶谷くん。右側が北小路くん」

 なんで北小路くんなのぉ、と朋子さんが笑う。いや、なんとなくイマジネーション、と小鳥くんは角瓶をかたむける。

「寺田くんはまとめ役ですね。いつも目立たないけどちゃんと自分の意見をもってる。だからめぐりめぐって顕れるのは彼の理性とか存在感だったりするわけです。梶谷くんは末っ子キャラで、わがまま放題まっすぐにわが道をゆく。でもけっして出すぎないんですね。そこへいくと北小路くんはいちばんマイペースなようでいて、最終的にしっかりかたちとして三人を留めているというか」

「結局仲いいんじゃない」

 ぼくも根元まで灰になったたばこを消した。

「わたしたちはどうみえてるんだろう」

 朋子さんの声ごしに、向こう岸へぽつりぽつりと日だまりが落ちているのがみえる。よく似た大きさの円がいくつもつづいていて、そのあたりだけふっと火がともっているようでもある。あれは、ひかりが落ちているのか、それとも影が落ちているのか。そのどちらでもないのかもしれない。

「兄やんがいいたいのは」

 もう小鳥くんは瓶をはなさない。

「いま、たとえばその話をきいて、おお、寺田くんとは友だちになれそうだぞ、とだれかおもったとしましょうよ。でももしかしたら寺田くんがほんとうは北小路くんという名前だったとしたらどうだろう」

「というより」

「わかってますって。あれやん、馬鹿の語源」

「なに、なに」

 あいかわらず体育ずわりの朋子さんが訊く。えたりとばかりに小鳥くんはこころもち前のめりになってつづけた。

「秦の二世皇帝がね、これから排斥しようとしている大臣のまえに側近をならべて、鹿を献上さしたんですよ。そんで、これは馬だ、といったの。大臣はいや陛下、これは鹿でございますと。そしたら側近たちは事前に意をふくめられていて、いやいや大臣、これは馬ですって」

「それは語源じゃなくて訛伝だけどね」

 ぼくはウィスキーを奪い返してのんだ。ええ、そうなんやあ、と小鳥くんはさしておどろくでもなく首をふって、まあ、おわったことですからねえ、としかつめらしい顔をしていった。

「でもそうだね、ナチスドイツだったか中野学校だったかの実験であったよ。その日の天気が晴れだと、被験者に雨だっていうってのが」

「なんかそういう映画もありましたねえ」

「あんまりよくわかんないんだけど、なんか底のぬけた紙袋みたいなお話」

 どうしてだか、いつもふわふわしている朋子さんはこういうところでするどい。小鳥くんもぼくも、ことばで話すときはどこかで安心しきっていて、どこかこずるい。水たまりみたいなのは、ぼくらのほうかもしれない。

 

 すこしのあいだ、三人で黙って川面をみていた。

 この水も、流れる場所次第で加茂川とか淀川とか大阪湾とか呼ばれるのだな、とおもった。

「兄やん」

 みょうに真剣な顔をするからなにかとおもったら、腹へりました、と小鳥くんが切実そうにいった。

「朝からなんも食べてへん」

「どうせ二日酔いだったんでしょ」

 ええ、どうせ二日酔いですよう、と口をとがらせる。

「きみは伯夷叔斉でも気取ってなさい」

 朋子さんが、わたしはビールがのみたいな、とつぶやく。

 小鳥くんとぼくは歴史の話がすきだ。正確には、クロスワードのように知識をもてあそぶのが。死んだひとが生き返らないということや、起こったことは消えないということが、ときおりひどくぼくらを安堵させる。守らなくてもいい約束の気楽さに似ている。

 ウィスキーは半分くらいなくなってしまって、まだ誰も立ち上がろうとしない。

 ぼやぼやと話しているうち、すこしだけねむたくなってきた。もうずいぶん、のびやかな夢のなかへお邪魔していない気がする。それとも気がついていないだけで、じっさいはねむっていたのか。かさぶたみたいに貼りついていた疲れがきゅうになにもかもを重たくさせるようだ。自分がいてなにかが欠けているのではなく、なにか欠けてしまった自分がいる、というかんじがある。そのなにかをおもいだせるかどうかわからないけれど。

どうやら、まだここを発てそうにはない。

「さっきさ。寺田くんとかの話をしたじゃない」

 小鳥くんは角瓶をらっぱのみしながら目だけでうなずく。

「そうなるって、なんかさ、台詞をうたっちゃうよね。しゃべれなくなってるっていうか」

「これは鴨川、みたいなことすか」

「地図を」

「つくってまう!」

「うれしそうな顔すんなよな」

 引き取られてなんとなくぼくは苦笑い。

「てことは、山とか川とかでええんか……いや、それもちゃうなあ。あすこに頂がある、水が流れてる……もちゃうか」

「ちゃうなあ」

 わざとへんてこなイントネーションでいってみた。ふへへ、と彼はくずれそうな笑い方をした。

「やっぱ慣れへん、兄やんの関西弁」

 それをしおに、またしばらくしずかになった。

 角瓶の飴色はこころなしか鈍く変わって太陽より先に沈むようだ。

 あやふやなことをおもいだす。アイルランドスコットランドのウィスキーは地層のなかにふくまれたピートの成分でこういう色になるという。くらべて、清涼飲料水のいくらかはみんなりんご味らしい。それへくわえる香料によって、商品名がかわる。小鳥くんや、朋子さんや、ぼくといったひとびとが、ほんとうのほんとうに彼ら彼女らである理由があるとしたら、それはいったいどこにあるのだろうか。

 ハイライトに火をつける。

「きみたちは詩人だね」

 とっぴょうしもなく朋子さんがいった。

「詩人の話はまわりくどいしめんどくさいうえに堂々めぐりだもんね」

 まんざらいやそうなわけではなかったけれど、どこかへぐさりと刺さる。

 

 いくらかして、酔っぱらった小鳥くんは大の字になってねむってしまった。規則ただしい寝息をすくいあげるように水際に気持ちのいい風がふいている。朋子さんとぼくはすわりこんだまま、またしりとりをはじめた。きっと上からはできそこないのモールス信号みたいにみえるのだろう。

 ミルクバー。アークティックモンキーズズータンズズボンズ(ここで朋子さんはにやりと笑った)。ズクナシ。ショートカットミッフィー。イギーポップ。プライマルスクリーム。ムーグ山本、はだめ?と訊くと、だめ。バンドじゃないから。にべもなくいわれた。村八分ブランキージェットシティ。イヌガヨ。ヨラテンゴゴダイゴ。えー、またゴ?

 名づける、という行為も、名前を呼ぶ、という行為もどこかそらぞらしくて、でもどうしてだかほんのちょっぴりいとおしい。のみほせばなくなってしまうとわかっていながらグラスに水をそそぐようなかんじ。グラスは残る。けれどいつかは割れる。

 ゴーイングステディ。イロハ、というと朋子さんは知らない、という。いたんだよ昔、京都のバンドで、ちょうど鴨川をうたった「初夏」っていうのが名曲でさ、そのあとガロンって改名したんだけど。あ、それならわたし知ってるかも。ハンバートハンバート。「おなじ話」いいよね。うん。トリモデル。オオタくん元気かなあ。ルードボーンズ。ずうとるびビートルズ。そうくるとおもってた。ズームユース。スマッシングパンプキンズ。えー。

 もうそろそろ夕暮れにさしかかろうかというのに、空はいつまでたっても暗くなるようすがない。

 そういえば、ここのところずっとこうだったようにもおもう。

 電池の切れそうになった秒針が、それでものこされた力をけんめいにふりしぼりながら、ふたつの目盛りのうえをずっとふるえているような。とてもぶさいくな永遠。その盤上に、だれか名前をきざんでやればいいのに。

 しりとりのたねが尽きたころ、ビール買ってくる、といって朋子さんが立ちあがった。

 もう会えないかもしれないなあ、とはふしぎにおもわなかった。

 

 小さなさざなみが目の前を左から右へ流れている。

 流れる、というよりは飛び跳ねている、といったほうが近いかもしれない。

 それは川底からひょっこり突き出た、ひとかかえほどもある石のあたりで渦になり、やがて大きな流れのなかへのみこまれてゆく。その一連のうごきは、いっそ、川、というより、大きな水、とでもいってしまったほうがしっくりくるくらい、ゆるぎなくしなやかな約束にもみえた。

 ひとりでぼうっとすることがすきだ。

 むかしから、ひまをぬすんでは、なるべく部屋にとじこもってぼうっとするくせがあった。それがたとえ、選択しないというかたちの選択であり、関与しないという種類の関与であるとしても。

 それから、いろんなものを読んだ。そこからしゃべることを知識だというひともあったけれど、いまはそうはおもえない。二十七歳になった。たくさんな有名人が死んだ年だ。二十八歳になったところできっとおなじようにみんなが死んでいるだろうけど、とおもう。年上の朋子さんも、年下の小鳥くんもきっとそういうだろう。

 世界らしきものはたしかに刻々とうごいてはいたけれど、ぼくはつとめてそのなかの点景であろうとしていたようにおもう。書割りは文句をいわないし、またいわれるすじあいもない。

 何時間かまえに、朋子さんが口にした世界の背中、ということばが耳にひっかかっている。背中は、みえない。たぶん自分の背中をこの目でみる機会は一生ないんだとおもう。指さきから火を出せるようにでもなったらわからないのだけれど。鏡にしかうつらない背中。ぼくの目がとらえられるものにはかぎりがある。おなじように、きっと世界がとらえられるものにも。

 ハイネケンを忘れていた。缶の底にのこったビールは生ぬるさをとおりこして、ごわごわと舌にからみ苦かった。ひと舐めしてから顔をあげると、向こう岸に花火ちゃんが立っていた。

 

「なにしてるの」

 そういったときのぼくの顔は、きっと、あとからみたら恥ずかしくなるくらい茫洋としていた気がする。おどろく、という反応がとっさにどうもうまく表情につながらない。

「なんにもしてないよ」

 花火ちゃんはこころもちうつむき加減に、ふふ、と笑った。笑うと、お人形さんみたいな顔がくしゃっとくずれて、ああ、血のかよった女の子だ、とおもえる。

 かたちのいい、小ぶりのお餅のうえを黒もじですっと切ったようなふたえまぶたが、淡い日だまりのなかで場ちがいにくっきりしている。なにもかも見透かすようでいて、なんにもうつしていない目だ。

「あなたはどうしてるかな、っておもってさ」

 そういうと彼女は草むらに腰をおろした。白黒ボーダーのカットソーの袖口からのぞく手首がまぶしいほどに細かった。

 白黒。なんだか、この世の中のありとあらゆる希望と絶望を交互に敷きつめたような。花火ちゃんはいつも、だれといるときも、セックスがおわったあとのような声でしゃべった。

「ねえ」

 川をはさんでずいぶんと遠くにいるはずなのに、吹きわたる風にも水音にもさえぎられず、その声はやけにはっきりときこえてくる。

「さみしかったでしょ」

 スカートのすそのほつれを気にしているようなそぶりをみせながら、そんなことをいう。

「さみしいというより、どうしたものか、っておもったよ」

 ハイネケンの最後のひとくちをのんでしまいながら、こたえた。これはわりあい正直な気持ち。

「あれから何年経つかねえ」

 そういうと、花火ちゃんはちょっといやそうに顔をしかめた。

「何年経とうが、おわっちゃったものはもうはじまらないのよ」

「そうかなあ」

「おわりつづけている、というのは、おわっていない、ということとはちがうの」

 話しているうちに、だんだんとおもいだしてきた。ぼくは、あるとき、この子のことがひどくすきだった。

 吐息のような声。ふちのまるまった貝殻みたいなつめ。ちいさくてやわらかい身体。

 それはわれながら性懲りもなく子どもじみた欲求で、めぐりめぐって登場人物のだれひとりとして落ちつくべきところへ落ちつけないたぐいの情熱だった。そうして、なんでだかぼくは、毎年、夏がくるたび病み犬のようにおもいだしては吠え、夏がおわるとすぐ忘れてしまうのだった。

 七月、新宿。ネオンがほとんど消えていて、いままで何度も来たはずなのに、ぜんぜん知らない街みたいだった。そこを歩いた。黙ってずっと歩いた。ひとびとはしんと静まりかえっていて、チカチカ光る星がやけに贋物っぽくみえた。

 花火ちゃんは歌をうたうひとだった。

 彼女が恋みたいな気持ちをうたうときはいつも、それが自分へむけられた手紙のような錯覚をおぼえた。ぼくは読まずにむしゃむしゃ食べた黒山羊さんをわらえない。そして、そういった黒山羊さんたちはずいぶんとたくさんいた。

 ぼくたち、と書いてしまえば、ぼくたち、として浮かび上がるはずのひとかたまりのなかにぼくたちなんてものはおらず、ただ、ぼくと花火ちゃんだけがそれぞれにいた。居酒屋で、ライブハウスで、電車のなかで、夜明けの舗道で、ずいぶんとたくさんの時間をすごしたはずなのに、ぼくたちはなににも共有されることなく、ゆっくりこちら側とあちら側へわかれていった。

 すこしずつ、空が暮れる。

 群青、は、群れた青と書くのだ、と気づいた。

「はじまってたのかなあ」

「さて、どうでしょう」

 いたずらっぽく答える、これがクイズ番組ならぼくは司会者を殴りつけてそのまま壇上へ上がってしまいたい。

「でも、おわったってことは、なにかがはじまってたわけじゃない?」

 のどがかすれた。

 いやにはっきりと水音が鼓膜へまとわりついて、声が遠くなる。

「最初からおわりつづけてたのかもよ」

 ぼくの背を抱いたゆびが対岸の青草をつまんでいる。

 あれは、いつの話だったのだろうか。

「あなたはいつだって内側にいたからなあ」

 花火ちゃんのつめはきらきらと光る。

「こっちへきたいなら、くればよかったの」

 手元に目線を落としながら、あなたは自分だけが逃げ水みたいだっておもってるでしょ、と彼女はいった。そんなことないのに、と動かないくちびるが語ったようだった。

 

 そのとき、ああ、この子はいってしまったんだな、とおもった。

 きゅうに、ぼくのなにかがやぶれる。そこからことばがあふれる。それは寺田くんや、梶谷くんや、北小路くんのような顔をしているくせ、まじりあってもう誰ともわからない。

「さみしかった」

 からになった缶ビールを川岸へ置くと、小石にあたったのか、かつん、と高い音がひびいて、いきおいあまったそれはくるりとまわって砂地へと倒れた。今度は鈍く。

「さみしかったとおもう」

 なにかにすがりつくように、もう一度口にだした。主語も述語も動詞も形容詞もみんなひとつの場所へまじりあってただの気持ち、みたいなものになった。

 水は規則ただしいリズムをたもったまま流れ、どこかでまた鳥が鳴いている。ひわ。ほおじろ。るりびたき……。

「おんなじになりたかった」

 つかのま、口ごもる。

「でも」

「無理だとおもった。でしょう?」

 こちら側はこちらで、あちら側はあちら。

「花火ちゃん」

「なあに」

 ただの気持ち、みたいなものを突き破って、今度ははっきりと。

「ぜんぶ、うそだよ」

 きっと。ぜんぶ、うそだよ。だれもかれも記号のなかに棲んでいた。ことばとことばのお見合いで世界は充満していた。概念は概念という事象ではなく概念ということばになって、偽りは偽りということばになって。そのまんなかで、ぼくをみていたのがあなたで、あなたをみていなかったのがぼくで。うそだと知っていもしないくせ、うそをもてあそんでいたのは、ぼくだ。それが露わになったでしょう。ある日。どうしてあんなことでそうなったかいまでもよくわからないけれど。ただ、なんでだか大勢のひとがそうおもってしまった。そのためにいま肩身をせまくしている水の一滴がある。とりあえずまとまって川になってしまえばあとは勝手に名前をつけてくれるなにかがいる。そうやってある日がおわってからはなにもはじまっていないなバベルの塔がくずれたのとまったく反対に。

 みんな、ひとつのことばをもってしまった。

 みんな、ひとつのことばをもつことがいちばん楽だと知ってしまった。

 

 花火ちゃんの歌がきこえた。

 今までにきいたことのない曲だった。

 それは、川の向こうへぼんやりと浮かぶ山々の稜線をなぞるようにのぼってゆく、とても懐かしいメロディーだった。

 ぼくはうすい草の先で指を切った。

 笑い皺みたいにほそくほそくきざまれた一文字のうえにうっすら血がにじんで、それがなにかのささやかな国境線のようにおもえた。

 歌は吐息のようでいて、すずやかにつらなってゆく。

 うたっている内容はききとれないけれど、どうしてだか、届いた段ボール箱を切りわたってゆくカッターナイフのしなやかさに似てこころ弾んできこえた。

 

「よくできました」

 だいぶんたってから、向こう岸で、花火ちゃんが、かすかにほほえんだ気がした。

「でも、あなたはまだおえられないのね」

 ぼくは、砂まみれになったビール缶を立てる。のどがからからになっていた。

「たぶんね」

 ひきつったような声で答える。

 だからここにいるのだ、と漠然とおもったけれど、ことばにはできなかった。さようならだ、ということも。

「花火ちゃん」

 いいさして、たばこを一本くわえる。風が強まってきたせいか、たばこにはなかなか火がつかなかった。ようやく火をつけて顔をあげたら、彼女のすがたはもうみえなくなっていた。

 花火ちゃんのてのひらはちいさくて、いつも火照ったように熱かった。

 ぼくは、待っている、とか、またね、とか、きっとそういう返事を期待していたのだとおもう。

 次に目をあけた瞬間に、なにかが劇的にかわっていればいいのに、とおもいながら目をとじる。

 

 しりとりは、ぼくだ、とおもう。

 誰かが口にしたことばになにかをつけたして、それで安心してしまう。そのルールのなかでは、かならずつぎになにか返ってくる。ぼくはただ、ゆるやかに制限された輪郭のなかでそれなりの感情をはじきつづけていればいい。ここでは、魔法も使えないかわり、ほかのだれかが魔法を使うこともない。

 日本語は、愛からはじまって和音におわる。

 むかしどこかでそんな文章を読んだ。

 和音は、和声は、約束ごとでできている。約束をやぶるばかりの人生だったなあ、と述懐してみて、はなから約束をあきらめていたのだ、とやるせなく気づいた。

 愛、だってわかりはしない。そもそもぼくにはわからないという理由で手放してきたものがあまりに多すぎる。

 なんだかんだで、神さまは留守をしている。たぶんずいぶんむかしから。その家のまえでずっと待っているのがぼくだ。あるいはずっと待っているふりをしているのがぼくだ。朋子さんはたばこを吸う。小鳥くんは吸わない。この川の水はあふれない。そんないつ崩れるともしれないおもいこみのうえでへらへら笑っているのがぼくだ。

 いまここにあるのが、仮にとんでもなく場違いな宇宙だったらどうだろう。流れているのが鴨川でもなく、すわりこんでいるのがぼくでもないとしたら。

 足を組みなおしたら、膝に当たってなにかがことりと倒れた。

 まだ開いていないハイネケンだった。

 数をかぞえまちがっていたのか。どうか。ぬるい緑色の缶を手にとり、急いでプルタブを起こして口をつけると、なんだかとても甘い泡の味がした。ほとんどひといきにそれをのんだ。のんだという気さえ起こらなかった。

 

 花火ちゃん。

 つぶやいてみても、だれもこたえてはくれなかった。

 ああそうだ、とおもう。

 しりとりは、ん、からはつづかない。

 

 しばらくして、足音にふりむくと、ビールを両手いっぱいにかかえた朋子さんが帰ってきた。

「なにへんな顔してるの」

「べつに」

「だれかいたの」

「いたけど、もういっちゃった」

 首をふりながら、朋子さんのかかえるビールの数をなんとはなしに目で追った。六本、までかぞえたところで、むかしのことをおもいうかべて、なんでだか、またちょっと涙がでた。

 

「わたしね、すきなものがたくさんあるの」

 朋子さんがビールをのみながらいう。

 今度はキリンラガーだった。缶の白地のまんなかに、古めかしい赤色で描かれたギリシャ文字のシータのような意匠。その中心を横切る直線の上半分に麒麟のイラストがおさまっている。もともとの由来は知らないけれど、ともあれ冷えたビールはのどにこころよかった。

「たとえば、冬の夜のシチューとかさ」

 このひとはいつも、あたかも、いまここが冬で、目の前にそのシチューがあるような調子で話をする。いつだって、ふとんのなかで母親に絵本を読んでもらっているのと近いかんじがある。

「ものすごく、家族のしあわせな食卓っていう気がしない?」

「わかる」

 ぼく自身にそういったじっさいの体験はないけれど、小さいころテレビで見たシチューのコマーシャルで彼女がいうような情景を目にした記憶はある。たしかに、あれはしあわせな家族の食卓というイメージ以外のなにものでもなかった。

「それで、すきなひとにもそうやってつくってあげたくなるんだけど、でも決して相手にもそういうふうにしてもらえることがしあわせとはおもわないの」

 とんとん、と、たばこの灰を落としながらつづける。

「わたしは冬の夜のシチューがすきだけど、シチューにもわたしをすきになってほしいとはおもってないっていうか。わかる?」

「うん。たぶんね」

 どれくらいこうしているのかわからないけれど、ずいぶんな量のお酒をのんだようにおもう。それでも、気がつけばハイネケンの空き缶も角瓶も風にさらわれたようにどこかへ消えてしまっていて、手元にはのみさしのビールと、いつまで吸っても減らないたばこと。

「朋子さんのことなら、たいていわかる」

「またそんなこといって」

 ぷかりと煙をはきながら、彼女は、しょうがないなあ、というふうに苦笑いをうかべる。ふたりとも、右頬だけの片えくぼなので、並んでいるといつもどちらかのえくぼがみえない。

 

「わたしずっと、テレビがすごくこわかった」

 しばらく向こう岸をみつめていた朋子さんが、つかのまの沈黙をやぶった。

「あの四角い画面にいろいろなものが映っているでしょ。それはきっと、まちがいなくそこで起こっていることなのよ。でも、その画面より一ミリでも外にあるものは絶対に映らないの。それなのに、わたしたちは目にみえている部分だけをすくいとって、おそろしいねえとかかわいそうだねえとかいっているの。それってどんなかなしい事件よりかなしいことなんだなっておもってしまって」

 彼女には似合わず、ひといきにはきだすようにいう。

 それからまた、すこしの間。

 ぼくはほんのすこし身体を朋子さんのほうへむけながら、つまさきの草をさわっている。さっきちぎってしまった草の根元を、蟻が何匹かはいまわっている。

「でも、よく考えたらテレビだけじゃないの。わたしもだれかといるとき、このひとはこうだ、ってどこかでおもってしまってる。このひとは女だからこう、このひとはいくつだからこう、なんて。そうやって、いろんなふうに映るそのひとをどんどん型押ししていって、いちばん重複する、まちがいがすくなそうなところでみているのかもしれない」

 おかしいよね、と、こっちをむいた朋子さんの顔はくしゃくしゃになっていた。

「おかしくないよ」

 ぼくもそうだ、とはいえなかった。いってしまえば、それがうそに染まってしまいそうで。おかしくない、とはいえるくせに。

「ビール、のもうよ」

 キリンラガーを手渡す。まだほのかにひんやりとした手触りの残るそれを、朋子さんが開けるといきおいよく泡がふきこぼれた。

「ばかみたい」

 やっぱりくしゃくしゃのままで、彼女は困ったような表情をして、少女が湯呑茶わんを両手でつつみこむようにしてひとくちすすった。

麒麟ってさあ」

 意味もなく照れくさくなって、おもわずそんな見当ちがいのことを口にしてしまった。

「ほんとにいるのかな」

「どっちだとおもう?」

 朋子さんは大事そうにビールをもうひとくちのむ。

「おれがおもうに、たぶん、どっちもなんだよね。麒麟がいる証拠も、いない証拠もない」

「いた証拠も、いなかった証拠もない?」

「でもそもそもこれは麒麟じゃないかもしれない」

「結局なんなのよ」

「っていう話」

 いい年をしてかわす会話でもないとおもうけれど、ふたりして顔をみあわせて、ほんのちょっぴり笑った。

 もしかしたら、今目の前にいる朋子さんも、ねむっている小鳥くんも、鴨川も、ビールも、ぼくも、みんなほんとうはここにいないのかもしれない。そもそも、ここ、ですらあったのかどうかわからない。

「あ」

 きゅうにすっとんきょうな声をあげたものだから、朋子さんはビールを口へはこびかけた手をとめた。

「なあに」

「しりとりがさ」

「うん」

「ん、で終わるっておもってたけど、いたの」

 おかしくてたまらない、という気になった。ぼくは、いま、どんなふうに彼女の目にうつっているのだろうか。

ンジャメナンジャメナ、ってバンドがいたよ」

「へんな名前」

 おもわず朋子さんがふきだす。

「アフリカ語で休息の地って意味なんだって。ンジャメナっていうのが」

「でも、じゃあしりとりがおわらないね。休めないね」

 うん。でもなんか、ちょっとした希望だね。

 口にはださずそうおもった。

 

「なにかがおわっちゃったっておもってるじゃない」

「おわってなくてもいいよね」

「うん」

「おわってなくってもいいよね」

 彼女は目を三日月にしてくりかえす。

 あいづちを、うつ。

 

「ちょりくん」

 朋子さんがぼくの名前をよぶ。

「おわっちゃったねえ」

 今度は、いままでとはちょっとちがった気持ちでそういう。あらためて、はればれとするようなことなんてひとつもないけれど、ちょっとだけちがった気持ちで。

「うん。でもわたしもきみもまだおえられないね」

 ふっと、花火ちゃんとまた会うことはあるだろうか、とおもった。この川べりで、隣同士になってしゃべることがまたあるのだろうか。この世界の背中で。

 

 それから長いあいだ、朋子さんと手をつないでビールをのんだ。

 ゆっくりと、それでも夜はようようにやってきて、街灯がうすぼんやりと照らす鴨川の夜はただしく暮れていった。

 彼女の指はすこし荒れていて、でもそれがいとおしいとおもった。

 真っ暗になるすこし前に小鳥くんが起きてきて、兄やん姉やん飲みましょう、とまたすっとんきょうな声でいった。消えてしまったはずのウィスキーは気がつけばまたそこにあって、けれどもうほとんど残っていなかった。誰がのんだのだろう、とふとわからなくなった。

 とりあえずビール買ってきなよ、といって、それからまたしばらくのあいだ、ふたりで手をつないで対岸のあかりをみていた。

 

 

 

 

 

 

 

2012年4月18日脱稿

 

 

 

トロンプルイユ

母国語の外へ

逃げ出したくなるときがある

意味の染みこんだ服を脱ぎ捨てて

なんとなく笑っていたい

それはカン違いのようであればあるほどいい

 

ぼくの思想や肉体は貧弱でも

それが白日のもとへさらされているのを

想像すると、ことばがぼくを超えてゆくのを感じる

きみは嘘つきじゃないが

嘘に近い何かでできている

 

きっとほんのちょっとした目の錯覚みたいなものなんだ

夏の暗がりに立ち尽くして愛の断末魔を聞いた

形而上的セルフネグレクト、待てど暮らせど 

痛みは痛みのまま、文脈を突っ切って

ぼくの知らない場所へ帰ろうとする

 

アルファベットのなかにいないひとと

五十音で解き明かせない謎がねむりにつく

ベッドのうえは黙りこくった血だまりでいっぱい

意味の色じゃない赤い赤い「わからない」

笑えない

 

そちらから見ると

ぼくはどんな顔をしていましたか

 

母国語の外へ

逃げ出したくなるときがある

けれど

痛みだけは無言で

その横を通りすぎて

ぼくの知らない場所へ帰ってゆく

ぼくもまた何かしらの嘘でできている