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キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

やっぱりエゴがすき

故・芹沢先生と千日手でおもいだしたのだが、と格好をつけてこの話をはじめようとおもったのだが、泥酔酩酊のわたしのこと。そう都合よく運ぶはずはない。「だまれ、こわっぱ!」である。西村雅彦である。そして幸喜と雅彦(こういう呼び方をするひと、いますよね)ついでに「今夜、宇宙の片隅で」を思い起こしていただきたい。最終的にもなんにもうまくいかないのだ。シナトラが歌いだせば「But not for me」だ。

 

閑話をすごく休題。

もちろん、チョメチョメ八段いわく「トラ(田中寅彦先生)みたいな志の低い将棋じゃ名人にゃなれないわな」と居飛車穴熊が評された時代もあったわけで、現前する事象はいくら多角的に切り込んだところで故・阪田三吉先生のごとく通天閣のうえから俯瞰せずば中長期的な視野からは断を下せないものなのだけれど、戦前派の棋士で「千日手は将棋のガン」と断罪したのが故・原田泰夫先生であり、「私は千日手を極めて嫌っている」とおっしゃったのは故・清野静男先生であった。おふたりとも同郷で、大正末期のお生まれ。一般に「頼まれなくても餅を搗きにくる」越後人といわれてなお、なのだ。原田先生の上杉謙信公(ならびに良寛和上)への憧憬は有名だが、なにか、こころのなかのセコムが「お屋形様」と低音でアレしているのか。アレってなんだ。アレって。

 

将棋ファンという服を購って数年経つが、それで人前に出るようになったのはつい最近である。

 

いわば、ぼくにとって「部屋着にしておくにはもったいないが、とっても着心地がいいし好きなのでついつい着ちゃう」、それが(「将棋」そのものではないですよ念のため)「将棋ファン」としての自分であった。

 

それは「王様のレストラン」における磯野の軽すぎた矜持と似ているかもしれない。「合い言葉は勇気」での暁の、手段と目的を見失ったがための韜晦に通ずるかもしれない。あの閣下の銃声を聞いたか。平助の涙を見たか。

なんというか、そういうことを言いたい。

自分自身が、もうちょっと、ちゃんと、幅の広い将棋ファンになりたい。

 

この稿は当初、「棋士の呼称問題について」というテーマでものすごくめんどくさい長い話になる予定だった。しかし「赤い洗面器の男」しかり、途中でかならず誰かに邪魔されて終わる話もある、ということ。めんどくさい話をするつもりが、自分がめんどくさくなってしまったということ。そしてなにかうまいことを言ったつもりがまったくうまいことを言っていない、ということもあるということ。生きているということ。若葉かなんかが…えーと、きれいだということ(季ちがい)。

 

獄門島にでもいってこようかしら…。

「だまれ、こわっぱ!」(ネタバレ的な意味で)

 

おあとがヨルレイヒー。