キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

花咲ける石(後編)

話がずいぶんと寄り道をしているあいだに風邪をひいた。

気分はもう檜垣是安。はたまた赤星因徹。いやそんなことを言ったらバチが当たるか。熱にうなされる頭のなかではなぜかエンドレスで「雁木でガンガーン」という自作曲が流れており、左肩にけだるげに乗っかった守護天使は「ここのポリリズムが…」と西尾先生のように講評していた。おい、よせ、咎めるな。

 

そうだ。パンがすき、という棋士についてだった。あぶないあぶない。

といっても有名なエピソードだが、観戦記者の故・倉島竹二郎さんが戦後まもなくの物資窮乏期、病身でなお妻子を抱え、途方にくれているとき、故・花田長太郎先生から連絡があり「わたしも家人も米よりパンがすきだから、米でよければいつでも取りにいらっしゃい」とおっしゃった。おまけに、いざ花田宅にうかがうと、当時貴重品だったバターをたっぷり塗ったトーストをご馳走してくださった、というもの。ほかにもこれは戦時中だったかとおもうが、「栄養をつけるには肉がいちばんだ」と、めったにお目にかかれないような分厚いビフテキをおごられたりもした。

 

花田先生といえば明治のお生まれだけれど、ちょうど大正期に青春を過ごされたことも関係しているのか、ハイカラな嗜好をお持ちだったのかもしれない。長身痩躯、現存する写真で拝見するかぎり、若者時代から晩年までとおして、相当な美丈夫である。

 

倉島さんはといえば、身の丈六尺、目方は二十貫を超える、こちらは偉丈夫。なにしろやはり明治のひとながら約180センチ、80キロという体格なので、その体感を現代に置き換えるならばもうひとまわりは大きく見えたにちがいない。本人も自認する大食漢で、とうに中年を過ぎたころ、とある将棋ファンのお大尽の宴席で饗応され、3~4人前をぺろりと平らげたという武勇伝(?)もある。

観戦記者ではほかに故・田辺忠幸さん、現役では加藤昌彦さん、君島俊介(銀杏)さんなど大柄な方もすくなくないが、プロ棋士でいえば誰だろう。

昔の先生方でいえば、故・加藤博二先生は180センチ、75キロという、大正世代としては十二分に雄渾な体格でいらっしゃった(まったく同年であるぼくの祖父が兵隊時代、176センチで「ノッポ」と呼ばれていたのでわかりやすい)けれど、浅学にして寡聞ゆえ、知りえる範囲での情報はそれくらいだ。関西将棋会館の主で、米俵や特大の碁盤を片手で持ち上げた逸話をもつ故・松浦卓造先生も、体重はともかく身長は172センチとのこと。

なにぶん大正~昭和の棋士はいまのように将棋年鑑などないため、こういうデータが残っているかどうかまちまちで、いたしかたないこととはいえ、記録者の断片的な記憶に頼ることになり、それが残念だ。

なお、現役最重量は判然としないが、先日、加藤一二三先生の公式twitterアカウントにて「100キロ以上」という衝撃の事実が明かされたことは記憶にあたらしい(なお加藤先生は若手時代のデータで170センチとある)。伍することができるとすれば大平先生くらいだろうか。ただし、大内組の鈴木、田村両先生もニコ生において「きみとはケタ(100キロを超えるか超えないか?)がちがうよ」といったお話をされていた(おそらく人生最大体重という意味合いだったので現在どうかは不明)。

 

結局、パンの話というよりかは、体重博士になってしまった。

つかれたのでこの雑話はここまで。

 

さて、いづこへ恋をしにいこうか。

そんなことばかり考えていたら、くしゃみが出た。

夕暮れとエレクトロニカ

街はとっぷりと沈んで、風邪のせいともかぎらない肌寒さを連れて夜がやってくる。

ぼくは二流のひと。