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キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

王座戦の夜

9月20日。

王座戦第2局がおわり、ぼくは虚脱していた。天井を見上げると、木目のまにまに糸谷先生の丸まった背中がぼんやりにじんでは消えた。どうしてだ。やっぱりあのマンゴープリンが敗着だったのか。TLは羽生防衛に王手、に沸きたっていて、やり場のない破壊衝動がぼくをさいなむ。みんな羽生先生がすきだ。きっとそのうちの幾割かは、到底自分には届かない場所にいるひとだから。すでにここまでに積み上げた実績が超弩級であるから。現状を革新することはできても、歴史を更新「しつづけられる」存在が彼以外にいないから。などといった理由も関係しているのだろう。けっ。また目の前がじんわりとぼやける。夢や希望を、可能性を、仮託することに興味をもてないぼくはいっそ狂ってしまいたい。お取り寄せのホタテ飯を三合炊き、これまでの人生でおそらくもっとも凶暴性をはらんだ両手でおにぎりを握った。時おり握りつぶしそうになった。それを最後の理性で抑えこんで、サランラップにくるみ、ヤサカタクシーを呼ぶ。ウェスティンに降っていた雨も、台風の湿気もきれいに消えていた。ぼくは街へ出る。

 

いつものバーにゆく。

いつもの、といっても、半年近い無沙汰ののち、この10日で5回目というだけだけれど、どうも、泣きたくなるとここへ足が向くようだ。してみるとこれは依存としたもんだけどなあ。あっ、いつのまにか森下先生が憑依している。でもぼくのきょうの駒台にはホタテ飯おにぎりしか乗っていない。バーテンの友人にそれを差し入れる。まだあたたかいおにぎりを渡せた、というだけで、それでもどうしてかこころはすこし休まるからふしぎだ。

店じまいまで飲んだ。まったく酔えない。正確には身体は酔っているし肝臓や腎臓は超過労働にストライキを起こしそうなのだが、午前4時ごろまでは精神が青白い顔をしたままだった。糸谷先生が負けたことより、糸谷先生が負けたことを一緒に悲しんでくれるひとがまずまわりに見当たらないこと、が重苦しかったのかもしれない、とおもう。

ぼくは将棋ファンとしては特殊な性分で、A級やタイトルホルダーの先生を応援する気になれない。もちろん一般教養として彼らの来歴やエピソードを勉強はするけれど、感情面での沸点がとても高くなってしまう。極論だが「たくさんのひとが応援している棋士ならぼくが応援する必要はない」ということ。だからふだん注目するのは若手の下位棋士や、あるいは昇段ペースの遅い中位棋士がほとんどで、さすがにそのことでマイノリティになるのはいたしかたなし、と心身で理解しているのだけれど、今回のようなケースはいまひとつ、ふたつ割り切れない。糸谷先生とて前竜王順位戦でも上位なのだが、羽生先生という存在が圧倒的すぎるため、本来「善戦」とか「健闘」というべき格差のあるはずはないのに、羽生先生補正により将棋ファンのあいだにそういう空気がうまれてしまうように感じる(さらにいうなら「羽生勝利、よかった!」以上に「羽生勝利、安堵」といったニュアンス)。ぼくには、それが、なんというか、とてつもなく悔しいのだ。焼酎は1本空いて、テキーラものんだ。なんならホタテ飯を炊いているあいだにもそこそこ。

 

店がおわって友人とのみにいった。すっかり朝だったが、すっきりしない朝ではあった。焼肉屋でホルモンなんかつまみながら、ぼくらはバンドをはじめることに決めた。正確には、ずっと待っていたひとを、ようやく迎えにいった、というかんじだ。

 

立つ瀬がなければ、浮かべばいい、と、ようやっと酔いのまわってきた頭でおもった。臆面もなく「世界を変える」ということばまで飛び出た。

 

ほしいのは、帰り道ではなくって、行く先である。