キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

河よりも長くゆるやかに

10年ほど連絡をとっていなかったひとからメールをもらった。

「生きているといいな、となんだか急におもって」と文面にはあって、そもそもいまにいたるまでメールアドレスを変えていない(自慢できることでもないが、ぼくはPCも携帯も高校時代からいちどもアドレスを変えたことがない。番号も)自分にすこし笑えた。笑えるうち笑え。いつか泣くときがくる。そう言ったのは故・升田幸三先生である。

彼女のなつかしい芸名をみながら、すこしめずらしげな本名をおもいだした。やっぱり、なにか笑えた。うれしい、とこころがゆっているのだけはわかる。

などと書くと、いらぬ嫌疑を受けそうではあるが、アバンチュールもなーんにもないのだ。ステージに立つ同士として、何度か会っただけの存在なのであった。

 

時代が時代だから、どこそこに詩を朗読するひとがいる、と聞くたび、ぼくは(最低時給600円とかのころ。信じられるかしら?)ありとあらゆるこすっからい手段を駆使して各地へ足をのばした。たとえば、先輩の恩恵にあずかって、レンタカーのはじっこにのっけてもらう。たとえば、「詩道(そんなことばあるのかな)発展のためなんです!」と先輩を拝み倒して「片道ぶんだけおごっちゃろうかい」といった言質を引き出す。われながら、まったくもってかわいげのないガキであった。しかし、なんせ、ぼくは17歳だった。厳密にいえば16歳でもあったし、18歳でもあったけれど、たいていのエピソードはおもに2001年から2002年あたりに集中している。

忘れもしない2001年10月14日、両親の18回目の結婚記念日にぼくはポエトリー・リーディングのデビューを果たした。もちろん、自由参加のオープンマイクだけどね。そこから1年だけでどれくらいの街へ飛んでっただろう。都道府県でいえばそうたいしたことはない。東京、愛知、大阪、岡山、それくらいではあるものの、せっかく入った同志社高校を留年するくらいには詩のサルと化していた。詩サル、見る、聞く、そんで言う。そういえば「ぽえざる」という詩の同人誌即売会もあったっけ。

 

当時はどこへ行ってもぼくより年下の詩人なんかいなかった。じわじわと普及しはじめていたインターネット上ではともかく、現場は現場でまた雰囲気もテンションもまったく異なるものだったように記憶している。あるとすれば、お母さん詩人や家族連れ詩人の横にいる乳幼児、せいぜい就学前の子どもだろうか。

ぼくはこのうえなくいいタイミングでこの世界に入り、約5、6年後、このうえなく悪いタイミングでこの世界を抜けた。そしていま、紅顔の美少年はくたびれて小汚い三十男に。才能はあっても天才ではなく、訓練はしても努力に目が向かない。天秤のバランスだけを気にしてしまうような、すこしく器のちいささを感じさせる村夫子に。

それでも、河よりも長くゆるやかにぼくの日々が誰かのなかでもつづいていることに、ハッとさせられた。この程度生きていれば当たり前かもしれないけれど。

 

オチもなにもあったものではなく、ただ単に、すこしだけ、むかしのことをおもいだした、というだけのお話。