キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

極楽はどこだ

ここ数日、「週刊将棋30年史」(アマプロ平手戦・対コンピュータ将棋編)をゆっくりゆっくり読んでいる。

じつにおもしろい。なにしろ、三段組で450ページ超のレンガ本であるがゆえ、そのボリュームだけでも、ぼくのような活字中毒の将棋ファンにおいては盆と正月が一緒にやってきたようなものだ。いわば、ぶ厚くて美味いステーキに歯を立てて噛みちぎろうとする瞬間の幸福、そういった感覚が数時間以上もつづくわけ(このくだり若干、河口老師の「対局日誌」の作風に影響を受けているなあ)。

観戦記者として、木屋太二さん、湯川博士・恵子夫妻、池崎和記さん、片山良三(銀遊子)さん、高橋呉郎さん、奥山紅樹さん、東公平(紅)さんをはじめそうそうたる面々。

もちろん河口老師をはじめ(自戦記もふくめれば)神吉、島、先崎先生など筆の立つプロ棋士の文章ものびのびと躍動していて、断簡零墨まで見落とすわけにはいかぬ、という気持ちになる。

 

将棋の本はいい。随筆、自戦記や観戦記、棋界のエピソード、などなど。

しかしながら、そのすべてを鵜呑みにするわけにはいかない。

というのは、なにも棋界どうこうではなく、活字を読むものとしての最低限のマナーだとぼくは考えている。

文章には好意も悪意も滲み出る。見ている角度だってそれぞれにちがう。ときに無意識に誰かを貶すような表現がひょっこり顔を出してしまうことも、意図的なる揶揄や批判が素足で土間を越えてくるような場合もある。

ぼくはそれ(正確には「その可能性」というべきかしら)もふくめて、やっぱり活字がすきだ。「ひと」や「ひとの棲み暮らす場所」について書かれた文章がすきだ。文意を、その動力の原点を、疑うことはけっして筆者に対する侮辱ではないと信じている。疑ってうたがってうたがった先に、ひとつの歌があるのだ。そして、歌というのは行間を流れる血に相違ない。ぼくはそのちいさな溜まりに手をひたしてみたい、とおもう。

 

ところが、そういったぼくの生き方では、捨てアカをつくっては誰かに御叱呼をかけるような(尾籠なたとえで失礼)人間(?)を読み解くことができない。困った。

匿名、だけならまだいい。匿名だろうとある程度の発言数や年数を経れば、それはそれでどこの馬の骨ともわからないながらに、どこかの馬の骨だ、ということは看取できる。問題は、今回の将棋界における一連の騒動において、記名的存在である棋士や将棋関係者を汚い言説でボコっている多数が捨てアカなんだ。骨なのか血なのか関節なのかすらわからない。そこなんだ。お詳しい方なら「あー、2chの××板でなんかこういう書き方するやつ見たことあるかも」などとおわかりかもしれないが、ぼくにはいまのところ厳しい。

しかし、彼らは「将棋ファン」なのだろうか。

「ファン」とは、いったいなんだ。

 

極楽はどこだ。