10月27日
母方の祖父が亡くなった。
と書くのはほんとうはおかしい。日本語的に。祖父はそう表現されるべきひとではなかったのだから(察しのいい方は察してください)。まあそれを言い出すと「日本語的」ってなんだよ日本語的って、という話にもなるのかもしれないが、この際措いておく。
嘘みたいな話だけれど、母方の実家(という言い方もたいへん違和感がある)へゆくと、まず挨拶は「ごきげんよう」である。まあ、ここらへんまでは「~時代以来の旧家」「旧華族の家系」みたいな設定のドラマでも出てくるから、読者諸兄におかれても”他人事”としては馴染みのあるほうだろう。
ところが、厳然たる言語学的見地からすると(ラングとかパロールとかを思い出すよろし)文法だけでなく単語レベルでもそこは異国であった。そこ、というのは母方の実家のことである。なんじゃそりゃ。
ほとんど自主的にではあるが、キクチは思春期ごろから斯界関係の書籍を読みふけり、その異国の言語を学び、その文化に極力添えるようにすごいがんばった。そして、なにかしらがんばりかたをまちがえた。一人称はぎりぎり「わたし」「わたくし」でもセーフ、というか、べつだんアウトもない(事実、妹や弟はふつうのことば遣いをしていた)のだが、「明史は~でございます」調のしゃべりを多少苦しみながら会得したのであった。しかし、よくよく考えてみると、それは外孫とはいえ孫のしゃべりかたではない。被雇用者あるいは下位者の言語なのです。
ただ、ぼくのなかで、祖父(と書いてしまう)はそれはそれはおそれおおい(ものすごく、このうえなくお優しい方だったけれど)存在で、いくら孫とはいっても、父方の祖父(このひともたいそうえらいが、あくまで一般人である)に接するような感覚、またことばで臨むのは万死に値するくらい失礼なことだとおもったのです。そういうふうに考えていた、いきがりたい盛りの10代後半の自分はそうとう頭がおかしい気もするけれど、でも、そのびびりようというか、大きな山を目の当たりにしたとき感じる畏怖みたいな感情は、きっとまちがってはいない、といまでもおもう。
まあちょっとほかにいろいろまちがえすぎて今日(こんにち)のキクチバカオロカがいるわけだけれども。
最後にお会いしたとき、ぼくはもしかしたらこれが最後になるかもしれないとおもって、戦時中のもろもろなど、いろいろとつっこんだ話をお聞きした。
お酒でものまないとそんな蛮勇をふるうことはできなかったから、ぐいぐいとのんで。
そのせいにしてしまうが、お別れの挨拶をするとき、つい「たいへん僭越ながら、明史はおじいさまのことを愛しております」と口がすべった。愛しております、ってなんだ。約20年ぶりに「おじいさま」などと呼んでしまったことにも冷や汗が出た。
祖父は、ふっふっふ、と静かに笑っていた。
祖父が亡くなった。
10月27日、竜王戦第2局がおこなわれ、日ハムがシリーズ制覇へ王手をかけ、天野貴元元奨励会三段の命日でもあった。
10月27日をぼくはいずれ忘れたりするだろう。とつぜん思い出したりもするだろう。生きている人間は身勝手なものだ。むしろ、身勝手であれることが生きている人間だけの特権なのだとおもう。
ただ、ひとつだけ、そうであればいいな、と想像するのは、祖父には3人の息子に先立たれたきびしくさみしい逆縁があったけれど、その遠いところでは、一度に全員と再会できることだ。
ともさんはもういくらでもお酒をのめるはずだし、よっちゃんも若かりしころの姿に戻っているかもしれないし、あっちではいちばん先輩ののり叔父がエスコートしたりなんかして。
ぼくは、ちいさな孫たち全員で(たしかあれは金婚式のときかなあ)演じた「おおきなかぶ」の舞台をなんとなくおぼえている。
そうそう、ぼくは牛さんだった(あれが人生で唯一着ぐるみに入った経験だ)。当時は丸々と太っていたから、適役にちがいない。
ぼくの人生は若杉どころか突然なぜか「菊」地になってしまって、そしてまだまだ根っこもなにも張れていないけれど、もうすこし、もうすこしがんばってみるよ。
おじいさま、ごきげんよう。
ゆっくりとおやすみあそばせ。