キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

フィルムとシャッター

ちょっとした遠出をした。

月日は百代の過客にしてうんぬん、というやつである。

調子にのって五言絶句のさわりらしきものをでっちあげてみた。

 

 賢愚活風塵 骚客老酒中

 

そこで力尽きるキクチ。そもそも平仄ガン無視。あとちょびっと伊藤博文のパク…パクチーおいしいなあ!(ふるえながら)(伊藤博文といっても棋士の先生ではなく春山花太郎とか花山春太郎のほうです)(…素直に初代内閣総理大臣っていいなよ)

 

ひさしぶりの東京は、相変わらず乾いていた。時代と寝るときしか濡れない女のようなにおいがした。教育的指導。低俗的思想。

東京自体はともかくとして、せっかく神々しい場所へお邪魔したというのに、わが人格は陶冶されることもなく、たとうるなら「メジャー球団のキャンプに派遣してもらえたけどなにひとつ学ばず帰国しました!」というNPBの育成選手くらい、ぼくはあたまがわるい

 

ぼーっとしていた。ずっとぼーっとしていた。

意識的にぼーっとするようにしていた。ぼーっとして夕暮れ。

 

空気がなにでできているのかすら知らない(酸素?)人間が、空気について語ることはできない。感じた空気についてなら、いくばくか言語化することはできても、それは(例外はあれど)なんら本質的な表現ではない。ぼくは知らないものに対して堂々と多寡をくくれない。100以上はぜんぶ「おっきい数」なのだ。

それはあるいは一抹の誠実さの表出であるかもしれないが、まあ、そんなふうに受け取ってくれるひとはたいていぼくへの過剰な愛情によって頭がちょっとおかしくなっているので、いま画面越しにあなたがツッコんだであろう「そんなことないべさ」が正解である。

 

なにが言いたかったんだっけな、と思い返せばことばは舞い散る。散る日本。

 

桜の木だけでなく、菊の花のもとにも、誰かねむっている。これからも長いねむりがつづくだろう。午前3時にねむりは深く…うんたらかんたら、というのはたしかS.キング「呪われた町」だったか。下落合に夕日が落ちる。

 

焼き場でお骨を上げるとき、妹が耳元で「お兄ちゃんこういうの苦手って言ってたけど、だいじょうぶ?」と囁いた。約20年前のことをよくおぼえているな、とへんなところで彼女に感心した。小さい小さいとおもっていた妹が29歳、弟も26歳か。でもだいじょうぶ。焼かれた骨は、炭みたいな質感と重量だ。あのあと炭を切る稽古を経てだいぶん慣れたんだぜ。

 

ひとつの時代がなんとなく収束し、ぼくはまだねむるわけにはいかない。ねむってしまいたいけれど、焼酎をのむ。