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キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

出る幕がない

雑記

きのうに引き続いて、「銀河英雄伝説」の話を引っ張る。キクチの話は薄いが広い。ひもかわうどんのようなものだとおもっていただきたい。うまいかどうかはなにをダシに使うかに委ねられている。…早々に自縄自縛、といったてい。

 

さておき。

ぼくが「銀河英雄伝説」にもっとも感銘をうけるのは「登場人物の退場させかたのうまさ」にある。それは「登場させかたのうまさ」とも相通ずるが、本質的には「登場したぶん退場させる」のではなく「退場したぶん登場させる(させない、ということもある)」のが正着だろう。長編の群像劇は、こうでなくてはいけない。

むろん、結果として長期連載となったといえ、短~中編の一話(または一巻)完結スタイルをとるもの、たとえば池波正太郎鬼平犯科帳」などはまたべつに語らるるべきで、おなじ作者でいえば「真田太平記」がそういった意味での名作とはおもうのだけれど。

 

突然プロ野球を例に挙げるが、各球団には支配下選手の保有枠が決まっている。育成(枠)という抜け道はあるから、巨人やソフトバンクは三軍制を敷いたりしているわけだけれど、原則として、こと創作においては、いっときに登場しうる人数にはかぎりがあるのだ。

小説や漫画において、そのような公式ルールはないが(ジョイス?マルケス?知らない子ですね…)やはり物語全般をシュッとさせるためにはある程度有機的な登場人物の入れ替えが必須かとおもう。長編、かつ群像劇というくくりで見るならば、たとえばヤングジャンプ連載の漫画でそれが上手く運んでいるのが「東京喰種」(および「東京喰種:re」)、失敗してなぜか壮大なギャグ漫画になってしまったのが「テラフォーマーズ」(および「テラフォーマーズ新章」)であろう。

 

銀河英雄伝説」の白眉は、いちに設定、二にも設定だとおもう。もちろん、細かい部分としてのキャラ造形やエピソードの挿入もすばらしいのだが、作中の表現を借りるなら、政略レベルですでに勝っている。

キクチいわく、まず大枠の舞台設定として「宇宙」があり、つぎに「二大勢力による戦争状態」(第三勢力としてフェザーン、ないし地球教は出てくるものの、これらはあくまで広義における軍事的なベクトルを保有、行使する存在ではない)というものがある。

つまり「宇宙での艦隊戦だから、艦艇が大破したら物理的にだいたい死ぬ」。オーベルシュタインのように開戦前に自主的に脱出するならともかく、地上戦や海戦とはちがって、「部隊は壊滅したけど運よく誰々だけは逃げのびました」というご都合主義がまかり通りづらい。そして、複数の軍閥による割拠では(外交などによる延命がきか)ないため、必然、帝国と同盟が戦闘し、どちらの登場人物も無傷というパターンは現実味に乏しい。ひとたび戦闘が起これば、すくなくとも戦場で誰かしらは命を落とす、ということになる。

蛇足ながら「アルスラーン戦記」はこの部分を「敵方に魔物(人外の存在)がいる」設定でもって、中世の地上戦でありながら、うまく掬っているとおもう(つまりいかに頑強な「白髪三千丈」的な武人であっても相手はチートだから殺されてしまう場合があるというエクスキューズですね。あ、これ王欣太蒼天航路」の関羽の最期にも援用できるかしら)。

 

「戦争とは(味方をどれだけ生かせるか、ではなく)いかに効率よく味方を死なせるか」と書いたのは誰だったか。ある意味では将棋の(その名のとおり)捨て駒、駒を切るというのも同根ではなかろうか。将棋の場合、実際駒が死ぬというわけでなく、敵方に再雇用されるのだけれども、たいてい、敗勢の側の駒台にたくさん乗っているものだ。

しかしながら、その理屈自体は小説や漫画にもぴったり当てはまるように感じる。

単純に、登場人物が増えるいっぽうだとして、読者はめんどくさいが、そのこと自体に作品としての瑕瑾まではない。ただし、タテ糸と横糸をリズムよく織っていかなければ、模様が完成することもないだろう。

 

捨てる勇気、というありふれた言い方になってしまうが、ひとが、また作品が一度に持ちうる分量ははじめからさだまっている。

それはなんとでも言い換えられる。魂とか、美学とか、あるいはもっと形而下的ななにかでもいいけれど。そもそも地上に富を積むことはできないのだ。

 

つくしみふかき友を持たないぼくには、いま、世の光はどうでもいい。しかし、北の地の塩ラーメン(サッポロ)がたべたい。ライフにでも行くか。

 

なお、当初この日記タイトルは「あれ(れ?おかしいですよ?)のはてに」にしようとおもっていたのだがさすがに失礼すぎてやめたことだけお伝えしておきます。インエクシェルシスデーオ!