ドラマ
こころをきれいに保つのはとてもむつかしいことだ。
ときどき、おがくずをまぶしてやったり、枯葉でそっと隠してやったりしないといけない。なんとなれば切りつけてわざと血を流す。泥を塗りたくる。何度となく埋めて、いくたびもその墓をあばいて、まだ新鮮なやつを引っ張り出してくる。そうでもしないと、こころはほんとうに死んでしまう。すくなくともぼくの場合は。
こころそのものが本来きれいなものか、あるいはきれいであるべきか、それはわからない。そもそも、きれいってなんだ。ピカピカ光っていればいいのか。けがれなき色艶をのっけているものなのか。ふれたとたんに消えてしまいそうな、はかなさと美しさをこねくりまわしてなお言語化できない透明のようであるべきか。
さて、どうだろね。ぼくの守護天使はこの話題にはあまり興味がないらしい。したがって、ぼくもそれ以上筆を進めることができない。
もうずいぶん前におもいついた自分のキャッチフレーズで「飲む、打つ、かわいい」というのがある。
ひとつめはそのとおり。みっつめについては、ただの地口落ちのニュアンスだ。かわいいかどうかの判定は読者諸賢ならびに後世の諸君にお任せする。
ところでふたつめ。ぼくは将棋は指せても、囲碁は打てない。クスリなんてものも打ったことがない。博打?せいぜい、むかし競馬をすこしかじっただけ。パチスロは1回で飽きた。
それならいったい、なにを打っているのだろう。
牽強付会のそしりは免れまいが、どうやらぼくはずっとビートニクにあこがれているようだ。命名の由来に諸説あるうちの一、すなわち「beated」=「打ちのめされた(世代)」。へんなひとたちだった。移民、セクシャル・マイノリティ、アルコール依存症、薬物中毒などといった個人に帰結する要素を別にしても、グレイテスト・アメリカのなかで呼吸がしづらくなった中流階級以上の若者たちの多くが詩人になった。
ぼくはきっと、打ちのめされたくって、生きているのだとおもう。
いま、日本において、社会の閉塞感はもはや大きな物語になりえない。加えてドラスティックすぎる言い方かもしれないが、大災害や大事件よりか、まだあのころ、「9.11」のほうが(ほぼ)部外者であるはずのぼくらにとってはまだしも共有しうるストーリーだった。なぜか。個人メディアの発達、一億総発信者時代。ひとりひとりのたどっている小さな物語の、もしくはその集合体の先にだけ(あるとすれば)ドラマが。
さあ、そんな2016年に、幸か不幸か表現することを選んだぼくは、どう打ちのめされようか。
きっとそういうことをずっと考えているのだとおもう。
フェアなやり方でないのはわかっている。
けっして美しくもなければ、はかなくもない。ただただ露悪的なだけだ。
「飲む、打つ、かわいい」
裏返せばぼくは自分が打ちのめされるために自分に鞭打っている。とことん汚い方法で、言い訳だらけの文脈で、誰もしあわせにできない情念で。
でもねえ。
ぼくはどうしてもドラマになりたい。
ドラマを目撃したいのでもつくりたいのでもなく、ある種ばかげた壮絶さを脇に抱えた、ドラマそのものになりたいんですよ。