キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

Living is easy with eyes closed

12月6日。いつものDD。

風邪との千日手模様はどうにか打開したものの、全体的にあんまり調子がよくない。故・升田幸三先生いわく「わしはたしかに体は悪いが気は病んでおらんから”病気”ではない。”病体”じゃ」。キクチはどちらかといえば病気である。

 

この日も、バーテンたる村島にナオキ、オーナー、常連客ひとり、そして自分という、ふだんであれば楽に接せられる、家族的な面子だったのだが、心気鬱々として酒神降臨するあたわず、さして酔えぬ。てっぺん前に出る。それでも三条をぶらぶらしながら「そのうち気が変わるかもしれない」とおもい、再度来店。もうすこしのむも、結局午前1時すぎに帰宅。

 

どうも、年余長々と掲げてきた「人生お休み中」の表札をこのたび取りかえることとなり、自分でじぶんに居心地のわるさを感じているらしい。要するに「はやくライブしたい」であり「なのになぜスケジュールが未定なのだ」であり、「おいおいもっと騒ぎ立ててくれよ詩人の帰還を」といった駄々もこねているのだ。ドリームがカムしてトゥルーにならなかった日々にさえ何度でも何度でも朝がまたくるというのに、たいそうわがままなことに、待ちきれないのだ、きっと。未来予想図はひとから与えられるものではないのにな。

 

12月7日。

朝から破壊衝動がとまらず、けれどぼくは物理的になにかを殴る性癖はないため、ついつい通りすがりの小言を「売られた喧嘩」に仕立て上げてしまう。プロボクサーや相撲取りが一般人と喧嘩をしては絶対にいけない、という金科玉条を、詩人として破ってよいのか。いやまあしかし、これは詩で殴っているわけじゃない、あくまで言説で殴りかかっているのである、とわけのわからないことを言い聞かせていたら腹が減った。

最寄りのラーメン屋は豚骨・細麺好きのキクチにぴったりだし、量も少な目でちょうどよいのだが、店主はじめスタッフがやたら愛想がよく、またそこに厭味がないので、精神状態のよろしくないタイミングで行くとそのやさしさやあたたかさに逆にダメージを受けることもあり、ずいぶん足を運んでいなかった。

しかし、ええい、ままよ、と飛び込む。チャーシューメンを食べる。うまかった。しかし体調はよくない。帰宅してのびきった麺のようになった。恒例の脳内ひとり二万字インタビューを繰り返しているうち、自嘲とともに気がついたらねむっていた。

 

12月8日。

生きてゆくことが苦しい、と感じたことはさしてないが、生きていることは苦しいとよくおもう。存在の耐えられない重さ。人生が双六のようなものであればいいな。

めぐまれているから、苦しいのだ。

なにを贅沢な、と、あなたは憤るかもしれない。それはなんら間違っちゃいない。けれど、ぼくのほうだってひとつも間違っちゃいない。

ぼくらはすれ違えるだけでじゅうぶん幸福だ。すれ違ったことにすら気づかぬままに、一生を第三者同士として過ごしてゆくことをおもえば。

 

なんにせよ、根っこの部分で、ぼくはどっちだっていいのさ。