小さく死ぬ
ねむたくってねむたくって仕様がない。ひとと会ってしゃべってエネルギーを発散させすぎてしまう、というか、小さい子どもがはしゃいで熱を出すことってあるでしょう。まさしく今ぼくはそんな状態なのである。
だから先崎先生のことばを拝借すると「ときどき部屋のなかで小さく死ぬ」。
そういったひと呼吸おかないと、外へ出るのもなかば自傷行為にちかい。旧交を温めたい飲み屋は多々あれど、ひとりで、となるとあいかわらずDD、CAPO、ONZEの三角食べみたいな日々になる。要するに七割方、村島洋一かサイトウナツミに会いにいっているようなものだ。
唐突だが、村島洋一は燃える水である。もしくは、凍った炎である。
はじめて会ったのは2009年6月3日水曜日だったろうか。VOXhall2年目のぼくが彼のバンド(そろそろ時効だろうと信じて言うが、音源を聞いたときはいまひとつ、ふたつ、しっくりきていなかった。「地元の20歳ちょっとにしては悪くないなあ」くらいである。不明を恥じている)をブッキングしたのだ。いまやトレードマークともなった長髪も当時は旧帝大生のように短く切りそろえられていて、ハコ入りしてまず事務所に挨拶にきた彼の第一印象は「ニコニコしていて礼儀正しいし、言葉遣いも品がある。いいやつ」。
ところが、おどろいたね。
数時間後、ステージに上がった村島は、あきらかにぶっ飛んでいた。それも、”ぶっ飛んでいるあいだはなにも考えなくていい”類の、いわば合法的にラリっちゃってる系のそれではなく、”考えては忘れ、拾っては棄て”を瞬息のうちに繰り返す、なんとも生々しい、持ち重りのする混沌。力技ではない、技術と鍛えの入った、あるいはそうあろうとする表現だった。
ぼくはすぐに次のライブをオファーした。7月末、chori(キクチの昔の名前です)3rdアルバム「地図をつくる」リリースパーティ。これはVOXhallにて平日5日連続で開催するという、演者の立場からの欲望と、ブッカーとして日を埋めなくてはならない葛藤、そのいびつな落とし子めいた企画だったのだけれど。
村島はやっぱりニコニコしながら(会うのは二度目だ)駄菓子の詰め合わせをプレゼントしてくれた。「”地図をつくる”なんで」と、チーズ味の。正確にはメンバー発案だったらしいが、ふふふ、うれしいでんがな。キクチはこういうのに弱いんでおます(何弁や)。
ときは流れ、なんだかんだでバンドに参加してもらい、フェスのメインステージに出演したり、海外公演をしたり、そこそこは世にはばかったのだが、そのバンドも休止し、しばらく村島とは気高き馴れ合いの仲、とでも言うべき酒友関係になった。彼のほうもメンバー脱退やらで(すでに出会ったころのベーシストもドラマーもいない)いろいろと変化がある。
光陰だけがぼくらを撃ち抜いてゆく。
出ない杭、嚢中のままの錐。冴えんなあ。冴えんなあとしか言えないままふたりとも30代に突入していた。
そして「浮かむ瀬」である。
ぼくらはふたたび、なんかようわからんけどそれはすばらしいことかもしれませんね、というタッグを組んだ。いや、タッグははじめてか。スタイナー・ブラザースのような、ロード・ウォリアーズのような。
ドラマはかならずしもドキュメンタリーのなかにだけ見いだせるものではない。遍在する嘘や虚構、ひりつく皮膚の赤味、帰り道のひとり語り、きのうより薄い夕焼け、辻占の箴言、韜晦と後悔、一瞬が断続的な永遠におもえるとき。しかしぼくはそれをモキュメンタリーにもフィクションにもしたくない。
ただそこにある常識と狂気が、そこで起きる現象が、拾ったり棄てたり、考えたり忘れたり、その先に息づいていればどこを切り取ってどう味わってもらおうと本望である。
疑って疑って疑った先に歌があればいい。
村島が凍った炎ならば、ぼくは燃える水。
村島が燃える水ならぼくは凍った炎。
部屋のなかでは小さく死ぬが、板の上では、おっきく死ぬよ、おれたち。