キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

馬蹄今去入誰家

12月14日。

寝不足としらふで、HPが15/100くらいのところから冒険がスタートしたかんじだ。

乱視はこころなしか常よりひどく、キクチバカオロカの九九がやっとのかわいらしい脳は五の位あたりを行きつ戻りつ。これがほんとの都落ち、じゃなかった都詰め。いやもはや都の雪隠詰めか。なんだそのナヨっちい乱雑粗製ヌルマ湯系誤解釈的合成名称は。

まとめサイトじゃないんだから、自分をしっかり持ちなさいね。とわたしはキクチを抱きしめながら忠告した。もはやキクチとわたしの境界線すらさだかではない。ともあれ彼はこの日、呼吸するロプノール湖と化したのであった。

 

ついに三人目まで出てきてしまったぞ。

というタイミングでキクチは京都駅へ向かう。

夕暮れが数多の悪意や善意についばまれて、だんだんにその輪郭をぼやけさしている。

死んだハクビシンのような目でグルメサイトを巡回しながらカップヌードル・ビッグを啜ったのは二時間前の話だ。死んだハクビシンを見たことのない、というかハクビシン大好きだから死んだハクビシンなんて見たくないキクチにも、爪の隙間からぞわぞわ這い出してくる現実との距離感の違和を通じて、なんとはなしにわかる。「いまの彼は死んだハクビシンの目をしている」「アブナイ」。病気は伝染する。しかし安心してほしい。SARSの宿主だってハクビシンではなかったのだ。なにを言っているのだわたしは。

 

駅のなかにある大手書店では、某作家(言論と思想でひとを殴ることを幼少期から半世紀以上愉楽として甘受してきたひとだと感じる)の小説の映画化キャンペーンで平台。モニターにて、90秒ほどの予告編をエンドレスリピートはまだ許せる。内容が内容なので怒号や爆撃のシーン、必然的に大音量になるのもまだ許せる。しかし許せないのはその隣の文庫棚がちくまや岩波なんだ。やるなら幻冬舎や角川みたいな横でやっていただきたい。

ええと、解説すると、ここいらに来るひとにその作家のキャラも作風も映画の予告編のテイストも受けないとおもうんです。

それを「ちくまや岩波の棚=歴史や文化芸術に興味のある(比較的)硬派な読者=戦中・戦後小説の書き手でなんか政治的な発言も(定見ないけど)すごいしてるし(適当)親和性高いんじゃね?」みたいに書店員さんがもしも、もしもおもってたとしたらもう、うわーんです。キクチ、この作家の作品はなんていうか、否定的なニュアンスではなく「ファッションなんとか」みたいな自分の志向性や個性を認識したうえで、それでええのんや、と割り切って生きていくひとか、あるいは「売れてるらしいから読もうー☆」なひとにこそ合うとおもうよ…。

 

そんな泥のような時代がありまして。

時代じゃない、数十分だ、目をさませ!目を!

而してなるべく他人と目をあわせないように、つったってもとが乱視で近視だから焦点はうわの空。ロンパリならぬ、うーん、適切なたとえがおもいつかないが、「~スタン」各国のちがいがわからない症候群、と仮に命名、ともあれキクチ、新幹線に乗車。東京に用事があったわけで当然ながら東京へと運ばれてゆく。ここでうっかりサンダーバードに乗っちゃったりするドジっ子属性をそなえていればとっくに売れていたはずで…ああ…おおう…。

まわりは人間だらけである。まちがっても死んだハクビシンなどいない。所在なさ昂じて志津屋でカルネふたつとカスクートを買う。ホームで牛タン弁当を買う。

 

もう20年近く物理的にも比喩的にも細く生きているものの、中学卒業間近まで立派な肥満児、デブ、もしくはファットボーイ(近年では”健康優良児”とでも言わねば、”良識”的な方々の”正義”によって粛清されてしまうかもしれないが、自分にむけての形容であるのでご斟酌ねがいたい)として過ごしたわたしは、いまだにストレスのはけ口が本質的には食にいく。食などと気取ったが要はバカ食いなのだ。ピザLサイズとサイドメニューとか、ふりかけで300gのパックごはんをみっつとか、やってしまう。危険なときは夕食ののち、マクドナルドのセット・ポテトLにナゲットつけたその帰り道、チャーシューメン大盛り食べてた。過食と拒食もダンシング・イン・ザ・ムーヴ。

 

それで五尺九寸、十六~七貫くらいをキープしているのはしごく単純な理由による。

 

「酒のんでるときはそれでまぎれてる」

 

そう、つまり種々のアレやコレや(たいへん適当な言い方)により、のめない、もしくは、のんだらなんかいろんな意味でアレなケースにおいて発動する…なんていうか…そう…とっておきの、命をけずる、でもあんまり効果ない必殺技だ…。気功砲みたいな…。天さんごめん…。「孫…!」

あんな、ひとつだけつっこむとそれチャオズや。そんで天さんごめんて、それ自爆や。そんで、それひとつちゃう。ふたつや。ついに掛け算から「かずをかぞえてみよう」の世界にバッキンザデイ。

 

 

東京着。かわいていた。

東京がすきなのは誰しも(芸能人はわからないけれど)点景になれるところだ。

ああ、善意や悪意なんてものはいくらその総体が大きくても、ここでは割合としてはラーメンのネギだ。麺にもスープにも、チャーシューや煮卵にもおよばない、永遠なるト書き。ではこの街を覆っているくろぐろとした瘴気はいったいなにかといえば、無関心。ぼくにはときどきそれがひどくここちよい。

四人目も出てきたようですね。

 

結局、弁当もパンもすべて消え失せた。彼の血肉となった。賀すべし、弔すべし。まあこれくらいならちょろいね、と、自分以外うつらないホテルのうつくしく磨かれた鏡にむかってサムズアップしてみせたが、ぼんやりと見えたのはあいかわらず死んだハクビシンのような目だけだった。カザフスタンアフガニスタンウズベキスタンもおんなじであれば、詩人が死人であってもいたしかたあるまい。

 

急激に上下する血糖値のとなりで、そんなことをつぶやきながらわたしは22時まえに布団に入った。浴衣で就寝したはずなのに、午前2時、汗びっしょりで飛び起きる。わるい夢の四本立て。明瞭である、ということの恐怖から逃げるため視力矯正をしないでここまできたのに、単館上映にはもったいないほどのハイクオリティな、クリアリィな、そして爆音の現実的なホラーだった。

 

 

 

12月15日、19時帰洛。こえて16日。

めでたくもない京都で酒をのんでいる。

賈島に逢いたい。