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キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

こんなことおもった

あけました。

皆々様におかれましては、本年も相変わりませずよろしくおねがいします。

 

今年の目標については元旦にSNSのほうに挙げましたが、要約すると「よい詩を書くこと、書きつづけること」(一緒じゃねえかとおもわれそうですが微妙に意味合いがことなります。前者は上限、後者は水準の話です)そして「いつでも”わたしはこうおもう”と言える人間であること」。

「みんなが~」「誰かが~」「ファンは~」などとひとりよがりに代弁することでおのが保身に走るのではなく、他人を殴ろうとするなら、こちらも相手に殴られうる距離で、土俵で、個人と個人でしっかりと対峙したい。言論の自由表現の自由、絶対に堅持しなくてはならないものですが、そこを逆手にとって自分勝手な都合で援用するような匿名的人間でなくありたい。仮にもプロの詩人がこう言っちゃっていいのか、若干ためらいはありますが、詩人であり人間として、それだけはわたしにまだしがみついている尊厳考です。記名性、これ、キクチのおそらく生涯を貫くテーマ。

 

年を越した瞬間はふつうにねむっていました。合議制マッチで先生方、関係者が奮闘しておられるなか情けない…けれど数年来、なるべく大晦日は寝るようにしています。20歳ごろまでは家の行事、それ以降は職場(ライブハウス)でも演者としても恒例のカウントダウンイベントという習慣が10年近く続いてきたので、その反動なんじゃないかしら。誰かと遊びにいくのも、なんだか、さえんなあ、とおもう近年です。

 

きのうは夕方から実家に帰りました。

実家、といっても徒歩25分くらいの距離ですが、わたしはふだんからあまり家族と会わず(年に多くて10回程度だろうか)、また連絡もとらないため、しらふでは場が持たない。午前中から焼酎をキメていった。どれだけ家族におびえているのだ、キクチよ…。しかし到着後早々にビールをのみだしたため、それはばれなかったようでよかった。

夕食のあと、はじめて父親と将棋を指した。「では、お父上の振り歩先で」と、人生初の振り駒たのしかったなあ(かわいい)。

こちらは朝にハム将棋に勝ったばかりで意気軒昂(それもどないやっちゅうねん、というレベルの話ではある)、悠々とゴキゲン中飛車に振る。振り飛車がすきなわけではなく、ただ単に原田先生がすきだからお弟子の近藤先生に操を立てている、みたいなところがあります(それもどないやっちゅうねん、以下略)。父は居飛車でじっくり囲う。こちらがガンガン攻め、向こうが受ける展開。しかし「20年ぶりくらいやろか」という父とはそれでもあきらかに手合がちがい、不用意な天使の跳躍からボッコボコにされる。最後のお願い王手ラッシュ!で駒台(テーブルのうえですけど)から駒が消えたのち、感想戦でもボッコボコにされる。父さん、あんた、強いよ…。

しばらくはハムと一緒にがんばりたいとおもいます…(といっても勝ち越しているわけではない)。

 

かつての自分の部屋にふとんを敷いてもらっていたのだけれど、現在は物置き、というか衣裳部屋?となっているそこは禁煙になっていた。着物なんかもあるから当たり前か。キクチ負け犬は「ケッ、たばこ吸えないならいいよ」などとひねくれしょぼくれ居間のソファーでねむったのだった。

 

そして本日。

これは蛇足だなあ、絶対にぜったいに蛇足だろうなあ、とおもいつつ、でもあえて書くのだが、三浦先生の復帰、おめでとうございます。おかえりなさい!

ただ、TLが「ヤマダ電機さんかっこええー」「もう家電はヤマダで買います」的盛り上がりをみせているのにちょっとばかし違和感があり。というのも、ヤマダ電機さんは長年のご協力、またこのご時世に新棋戦を主催してくださるなど、たしかに将棋界にとって得難いスポンサー企業ですが、2014年のブラック企業大賞に選出されていることもまた事実です(当該賞の信頼度は措くとしても)。

で、べつにいいんだ。「三浦先生を信じつづけてくれたヤマダ電機さんありがとう!」「ていうかそもそも将棋界を応援しつづけてくれてるヤマダ電機さんありがとう!」はぼくも賛同。ただ、問題は「それはそれ」「これはこれ」ってちゃんと分けて考えているひとがどれほどいるのだろう、という点。

引き合いに出してしまったヤマダ電機さんには申し訳ないけれど、ずーっと今回の一連の動きのなかでそういった視座をもっている方が異様にすくないようにおもった。波がおしたり引いたり。ゼロか100か。ゼロと100のあいだにある1から99を、まるで意識的に見ないようにしているような言動も目立った。

目の前にある情報だけで見ようとしてもそのものは自分が見たいようにしかうつらず、感じられる勢いや波まかせでは見当違いの方向に流されてしまう。

それは奇しくも、疑惑が湧出したころと第三者委員会の判断、三浦先生の会見、連盟の発表を経た今、主張はどうあれ「見たいものだけ見つづけている」ひとたちの信念なき義、みたいなものとかぶって感じられます。それなら「三浦先生がやるはずないって信じてる」のような感情論に立脚した、けれどゆるぎないスタンスのほうが560倍くらい個人的には共感できる。

わたしは、やれこちらで煙が立ったから薪をくべにいこう(2ch名人なんかでいうところの「燃料」とはぜんぜんちがいます)といった感覚、気軽さ、傷つかないからこその傲慢さで発言するひととほんとうにちゃんと話がしたい。正義の暴力をふりかざす「他人」に。

 

最後に、キクチは、三浦先生と連盟、また棋士や棋界関係者のあいだでできるだけ「当事者たちが」「納得または受容しうる落としどころ」が見つけられることを願います。

先生たちはファンが大事だという。それはしごくまっとうだ(ありがとうございます)。しかし、(ある程度は)ファンのおかげでこんにちの棋界があるかもしれないけれど、ファンのために棋界があるわけではない、とわたしはおもう。

「それはそれ」「これはこれ」。

 

ともあれ、繰り返しになりますが、三浦先生、おかえりなさい!

大向こうから「待ってました!」の声が聞こえているでしょうか。