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キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

ぼくが「読む将」になったわけ

雑記

将棋ファン、という存在の下部カテゴリが数多登場しだしたのはここ数年の話だとおもう。いわく「指す将」「観る将」「撮る将」「描く将」「ネタ将」など、その分類は多岐にわたり、それ自体はSNS(および個人メディア)時代においてほかの分野と足並みをそろえている、きわめて自然な流れではあるんだろう。ようするにそれぞれの「ちいさな物語」を生きてゆくことがぼくやあなたの人生の骨子になってきたんだ。

適切なたとえではないかもしれないが、阪神大震災はまだ「みんなの」ものだった。そして東日本大震災は「みんなの」ものにはならなかった。なりえなかった。「それぞれ」を足し算した「みんな」と、「みんな」の構成員たる「それぞれ」、は根本的にちがう。

本筋からそれるのでこの話はこのあたりで措く。

 

さて。

「なんとか将」に積極的に自分をあてはめるつもりはないが、その伝でいえば「読む将」(そんなひとはいるのかわからない)になるだろう。ぼくは棋書(ここでは戦法や戦型についての本をさします)はからっきしだが、棋界史や棋士の随筆、観戦記といった、いわば「将棋読み物」を好んで読んでいる。だいたいひと月に20冊程度、古本でまとめて買う(絶版本が多いから)。

ただ、そこにおいて蒐集癖というものはあくまで従である。あえて順番をつけるなら、将棋(界)への意味不明な愛情、知識欲、ペダンチシズム、そのつぎくらいになるかしら。

 

もともと、古今東西とわず歴史がすきだったのと、活字中毒の気があるので、「将棋読み物」にふれるのはさして特別なことではなかった。しかし、その最初がよかった。

升田幸三先生について書かれたある本を読んだのだけれど、そこでは有名な「ゴミ・ハエ問答」についての項があり、「ゴミにたかるハエみたいなもんだ」で文章がおわっていた。当然、これだけみると文脈としては升田先生が木村名人をうまく言い負かしたエピソードなのだな、と受け取れる。ぼくもそのときは「へえ、なかなか落語みたいなオチでかっこいいな」とおもった記憶がある。

ところが数ヶ月後に別の本を購うと、そこには「ゴミにたかるハエみたいなもんだ」のあとに「まあ、君も早く名人戦に出てくることだな」とある。まったくもって話がちがうではないか。実際、その現場の雰囲気はわからないまでも、これは木村名人が最後に(まだ名人挑戦経験のない升田先生に)痛烈な捨て台詞をぶつけたということで、まあ指し分け、すくなくとも「升田勝ち」の流れではない。

 

こういうことがあるから本を読むということはおもしろい。行為というより、むしろ営みとでも言いたいほどだ。

歴史好きゆえに、いやというほど類似のケース(砕いていえば「みんな言ってることチガウヨー」とか「この著者はこの発言とか挿話を意地でも書かないよね」とか)を体験し、いわば手筋は承知しているのだが、その一事が「あ、将棋も歴史だ、歴史として読める」という認識につながった。

 

そこからぼくの「将棋読み物」蒐集がはじまる。

たとえば河口先生の「対局日誌」シリーズや多くの観戦記を読み倒すことは、いうなれば日本の中世~近代史を勉強するならまず司馬遼太郎を読みましょう、というようなことだ(とおもっている)。そもそも分量が膨大だし、時代も多岐にわたるから(将棋の場合は戦後~平成十年代ではあるが)なんとなく「知った」気になるんだ。けれどそこで止まってしまうと「河口史観」「司馬史観」というフィルターを通してでしか事物を見ることができなくなる。おなじことは菅谷北斗星、倉島竹次郎、加藤三象子(治郎先生)、山本陣太鼓(武雄先生)、天狗太郎各氏をはじめとした、いわば観戦記者のレジェンドのもの「ばかり」読むのにもいえる。現役なら出版点数のきわだって多い先崎先生などもそう。

 

誰が正解か、そうでないか、ではなく。誰がどんな立場で、どんな性格の書き手か。好悪の情のはげしさや向かう先は。執筆当時の棋界事情、また利害関係は。ぼやかさざるをえないことは。そういったタペストリーの縦糸横糸や、人間同士のあいだにある陰翳まで(もちろん、あくまで「作品」として上梓されたものだから、いまtwitterをみて評価するようにはできない)それなりに読み込んで、いったん分解して、自分のなかで地図を再構築しないと、フィルターは取り除けない。逆にいえば、自分のなかに「自分のフィルターをつくる」作業であるともいえるかもしれない。つまり、誰々さんが誰について書くときはすこし悪意をさっぴいて読む必要がある、とか、このタイミングでこういう内容にふれるのは相当頭にきていたんだろうな、とか。

それはあるいは、当方の勘違いかもしれない。邪推やこじつけかもしれない。

ただし、ひとたび書かれた文章は、書籍のうえで甦ることはないし、たったひとりの証人の発言で事実や真実を決めつけてしまえるほど、ぼくは乱暴になれない。自分にも他人にも都合のよいような「情報を集めてきたんで、それをそのまま知識として開示しますね」というスタンスとは、気が合わないんだなあ…どうしても。

 

なんだか脱線ばかりしたけれど、なぜキクチがいわば「読む将棋ファン」なのか、そして「将棋読み物」を読みつづけるわけは、という、ひとつのちいさな物語でした。