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キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

自分の感受性くらい

詩人です、と自己紹介すると「感受性が強いんでしょう?」「感性が豊かなんですね」などと返されることが多い。どれくらい多いかといえば雨の夜にセンチメンタルになっちまう男の数くらいさベイブ。適当にいいました。

 

個人的には、まったくそんなことないんだけどなあ、とおもう。すくなくとも自分に関して、感受性や感性がとりわけひとより敏感にできている(これもへんな表現ですね)ようにはみえない。むしろ、ぼーっとしている。世界に対してわりと興味がないのだ。

なので、たとえばきれいな花を見て「わあ!きれい!」と嘆ずることも、「なんて花なんだろう」そう好奇心が刺激される、ということもない。「きれいだね」「花だね」でおしまいである。

……われながら「やばい、こいつ、そうとう頭がおかしいとおもわれる」危機感をおぼえてはいます。

 

たぶん、詩人にもいろいろあって、わたしは原則的におのれの感覚を信じていないのだ。なにかをうつくしいと感じたりすることが不得手だ。そのかわり、それがうつくしいということはわかる。そしてそのうつくしさを他者に伝えるすべを持っている。もう一歩踏み込んでやや偽悪的にいうならば、「あなたたちはこういううつくしさがすきですよね」というセンサーに近いものが頭のなかにあって、うつくしさを拾いながら詩を書いている。

 

自分自身の感情についても、うれしい!たのしい!だいすき!といったものが素直に出てきてくれない。むかしはそうでもなかったのだが、気がついたら30歳くらいの地点に置いてきてしまった。今ならまだ取りに戻れる程度の距離なので、とりあえず日に日に遠ざかってはいるけれど、ときどき振り返ってみる。

 

なんとなく、目がさめてねむるまでのワンセット単位でただよっている、というのも大きいようにおもう。わかりやすくいうと「きょうは死ななかったね。じゃあおやすみ」というわけで、「明日は何々をしよう」とか「何歳までにこれをしたい」とか、そういう発想が(仕事は別ですよ)ない。うん。一瞬乏しい、って書きかけたけどこれは、ない、が正しい。

喜怒哀楽というのはやはり積み重ねのもので、たとえば達成感とか、フラグ回収とか、振幅のあるドラマがうまれるのは、やはり中長期的なタームのうえにである。ああ、どうも、一夜限りの自分を生きているのだ。

かつては、「子どもが生まれたらどんな名前にする?」みたいなことばかり話していたのですけどね。

 

さて、ひさびさにブログを書こう、とおもいたったものの、想像以上に暗い話になってしまいました。

現在地はここらへん、ということで。

明日突然わたしが意識の高いアルファツイッタラーみたいになってないという保証はない。

 

もっとも、繊細すぎたがゆえ自分から防護壁をつくったのだ、そんな解釈が後世のキクチ研究家によって提唱される可能性は否定できない。ていうか、むしろ、提唱して。

 

そのまえに、もうちょっと自分の感受性とくらい、仲良くなるべきだよね。