キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

詩のはなし、すこし

「どうやったら詩がうまくなりますか」

よく聞く質問です。

そもそも詩なんて書いてる時点で、そして「うまくなりたい」なんておもうならまして、彼氏彼女には愛ある「キチガイ」という称号をおくりたい。いや、これ、皮肉でもなんでもなくって。御同行、沼にはまったね。これから窒息するまで一緒だね、ということです。じつはうれしいのです。うれしいのだけど、そのよろこびを素直に表現すると先述のようなことになる。ほんとうに詩人か、キクチ。

 

「どうやったら詩がうまくなりますか」

そんなとき、わたしは「どんどん書け」と答えます。

ある意味、身もふたもないように感じられるかもしれませんが、100編書けばだいたいの自分の作風がわかり、1000編くらいでそれが(いちおう)固まる。10000編とはいわずとも、そこからはもはや「半玄人」の世界。守破離でいうならそろそろ破ってもいいんじゃない、という進境なわけです。

将棋ふうにいえば「手拍子で書けるように」が近いかしらん。

 

はっきりいって、最初から一編書くのに何日もかけるようなひとは見込みがありません。

例外はあるにせよ、そういう頭のはたらかせ方は、もっと技術や発想を蓄えて、あるいは磨いてからの話だとわたしはおもうのです。将棋なら「待った」はできませんし必ず勝ち負け(持将棋千日手は別)がつきますけれど、詩では何千回でも「待った」ができます。走り出した理由とか、経路、ゴールを考えるのは走り出してからでよいのです。

なので、駄作でも凡作でもなんでもいい、可能ならソネット程度(構成ではなく尺の問題です)の短いものでも日に一、二編は書いてみる、そしてそれを半年つづける。こういうひとは、上達が早い傾向にある。早期に詩に見つけられる可能性がそれだけ高まるわけです。

 

あるとき、バリバリの若手俳人から「詩は自由すぎてなにをしたらいいかわからない」といわれました。同感です。

俳句というのはまず五七五という制約があり、季語という縛りもある。いわばパズルです。すくなくとも17文字のうち3割くらいは季語で埋めてしまえるので(そんな浅いものじゃないと言われるかもしれませんが)、逆にぼくみたいな現代詩出身の人間からすると、息抜き……とまではいえないけれど、それに近い感覚でそのパズルをたのしめる。最初に「山笑う」とか「水温む」をどこに設置するか決めて、そこから逆算してことばを選ぶ、といったやりかたです。むろん、そうしてつくったものが俳句のプロを凌駕するわけではないので、いわば、門外漢ながらアマチュアの段位者くらいのことはできているのかな、というところです。

 

詩は自由すぎる。

だからこそ「どんどん書け」ということになります。

ふだん興味がないようなこと、ものにも無理やり目をむけないと数はこなせません。まっさらなキャンバスに絵が描けるのはせいぜい、よほど観察眼や好奇心の旺盛なひとでも一度に十数枚までです。

手拍子で、とさきほどいいましたが、そういう感覚を持つことが肝要。「ああ、なんにも浮かばないや」とふと見上げた天井。そこで「興味も知識もないけど、とりあえず天井のことでも書いてみようか」と切り替えられるひとは伸びやすい。

詩の場合、この「とりあえず書いてみようか」が上達への、というより、むしろ詩人全体における、なくてはならない姿勢なのじゃないかな、とおもいます。それをやらなくても書けるひとはいいのですが、わたしもふくめて、そんな人間は少数派なのではないかな。

 

突然こんな話を書いて「いったいどうしたキクチ」とおもわれる向きもあるでしょうが、わたしなりに、30歳を超え、売れないながらも(いちおう)一時期ちょびっと世に憚った、そしてなんとなれば今後詩壇にとって悪夢のようなカムバックをキメる予定の詩人(ちょう偽悪的!)として、なにかしら詩のこと、詩を書くことなどについて語り継いでいけたら、とおもいました。

そもそも、大学だけで約10校、小中高もあわせれば数知れず、あと行政民間とわず講義・ワークショップなどやってきたキクチ。もっとさかのぼればネット上で当時はじめて10代限定の研究会や詩のポータルサイトを主催したり、心根が普及育成おじさんなんです。わりと。うそつきました。普及イケメンです。

 

さておき。

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なんでもばっちこーい!です。

「お前、そのわりに詩ぜんぜんよくないんだけど」はご遠慮ください。すっごく、泣く。