キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

さわって・変わって

2017年6月前半戦は、総括すると、なんだかひとりで沈んでひとりで溺れていたような気がする。べつにふたりでも10人でも溺れたら死ぬのだが、なんていうか、こう、さみしいじゃないですか。御同行。どざえもーん!

いろいろ「なめんなよ」とおもうことが続き、いちいち怒ったり悲しくなったり相手を諭したり、ともあれ、最終的に「あ、なめられるのが(いまの自分の立ち位置的に)自然か」というしごくまっとうな結論に、しごくまっとうに着地してしまったのが悪手だった。灰皿投げんぞ。

そこからが辛い。「なめんなよ」という気持ちを「なめんなよ」と実際口に出してしまえるほどわたしは正直ではないし、なめくさってかかってくるようなひとでも嫌われたくない心理がどこかはたらくらしい。シュノーケルはあるのに使いません、という種類のばかげた窒息状態を酸素のかわり酒でまぎらわしていた。毎日ワイン4本はのんだ。溺れなくてもふつうに死ぬぞ。キクチ。

まあ、いろいろと言いたいことはあるのですが、自分のようなものではしょうがないのかもしれないな、とおもいます。

どこの大平先生だ。

 

閑話休題

藤井聡太先生の連勝が止まらない。

このままいけば記録1位タイがかかる28戦目(澤田戦)が山で、あとはとほうもないところまでいくのではないか、と相手の先生方にはたいへん失礼ながらおもってしまう。中継されている対局はほぼすべてリアルタイムで観ているけれど、基本優勢を築いてから、細かいミスはあれど、一手バッタリや頓死の気配がないのがすごい。ただ、キクチは天邪鬼な振り飛車党なので、愛するコーヤン先生にぜひ記念すべき29戦目でストッパーになっていただきたい、などとひそかに念じたりもしている。言わないだけで。あ、いや、書いてしまった。

プロ棋士というのは(時代=制度や棋戦数によるが)勝率3~4割台だと年間20局、なんてこともある。そのなかで、デビュー半年25戦25勝、街どころか国が光っている。

 

その話題からすこし外れるが、いわゆる「気持ち悪い将棋ファン」を自称する将棋クラスタについて昼寝しながら考えていた。実際には寝ながら考えられるわけがないのだからこれは文学的修辞である。

気持ち悪い(自称※わたしがそう感じているわけではありません)ファンというのはおもに「推し棋士に異常なまでの没入をする(そういった自分を表現する)(ネタ含む)」か「こだわりの強い純粋な中道的ネタ将」のふたつのパターンがあるのではないか、と個人的におもうのだが、傾向として前者はメンタルが弱く、後者は強い。

そんな印象を抱いていて、なぜだろう、と掘り下げたとき、もちろん個人差はあるにせよ、前者はレスポンスありきのボケ、滑り芸(語弊のある言い方ですが)がメインであって、つまり「わーわたしこんなに気持ち悪いー☆」に対して「ほんとだ気持ち悪いwww」とか「そんなことないよ!わかるよ!」とかっていう反応、つまり受け皿があってはじめて成立するケースが多いのではないかと。

比べて、後者ははなからネタ将としての自分のアイデンティファイが相対的に希薄なので、いくらでも大駒を切れる。端歩の挨拶返しがなくてもダメージは受けない。いいネタまわせたら満足です、というような。

おもしろいのはわたしが仄聞するかぎり、前者はSNS世代、後者はおっさん(失礼)が多い気がすることだ。ふつうは逆だよねえ、とおもうのだけれど。

ただ、無視できないのは前者がほんとうに誰々先生を愛しているがゆえ、手詰まりになりがち、という可能性である。体感では、たぶんそんなこともないんだろうけどなあ、と出ている。愛そのものを疑うわけではなくて、愛の種類、それが手段としてのものである(否定的な意味合いでなく)と。ここらへんの相剋は90年代後半のオタク文化でも…ウッ…頭が…。やめておこう。

 

ともかく、さわってみないとわからない温度がある。硬さややわらかさもある。

わたしはちょっとばかし今いろんな物事に懐疑的なのだが、まずは爪を切ろうとおもった。

 

 

 

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