キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

日本海の海の色は濃いという

日本海の海の色は濃いという。

これはわが父方の祖母がふともらしたひとことを、わが父(つまり息子ですね)が著書にてしれっとパク……パス……いやパスティーシュじゃないからなんていうか、パク……たフレーズなのだけれど、わたしは年々、冬の陰翳がふかまるころには、日本海慕情というようなものにとらわれる。

地縁はあるけれど、血縁がないのですよね。

以下、日本海(正確にいえば日本海側)随想。

 

金沢。

近江町市場の地下にある店でライブをして、オオトモさん(仮名)という泥酔絡み酒おっさんにしつこくくだをまかれ、「まくならてめえの話にしやがれ!」と威勢良く啖呵を切って飛び出し、しかしこちらも千鳥足だったもので、片町にて自転車置き場のチェーンに足を取られて盛大に転倒する、なんてこともあった。「ヤッホー茶漬け」に行かないか、と同行の地元出身の女の子が言ってくれたのだが、折悪しく雨もそぼ降り、宿はみつからず、タクシーでずいぶん遠くまで行った。セックスもせずに寝た。どこかさみしい夏だった、あれは。

家族に関していえば、だいたい毎年雪の頃に片山津へ旅行するのがわが家のならわしだった。「矢田屋」という旅館で、のちにここが将棋のタイトル戦でも使われたということを知って、わたしはおどろいたね。物心ついたのが1980年代後半だから、屹度観戦記などに出てくる仲居さんとも接していたにちがいない。

この家の記憶では、その後、別館的に、モダンなホテルアローレというのができて、一度そちらに投宿したのだけれど、食事処で昼飯に頼んだものが20分、30分経ってもいっこうに出てこない。それで、父親(蕎麦を所望)の堪忍袋が切れてしまって、「帰るぞ!」と言い出し、たいへんな一幕となったことをおもいだした。わたしがそれなりに忍耐強いというか、「いま隣のローソンに買いに行ってるんや」などと京都ジョークを多用するようになった遠因は案外このあたりにあるのかもしれない。

ほかにも金沢では10代時分、30代の主婦と兼六園に行ったり、女子高生とカラオケに行ったりした。いずれも淡い交わりである。相手、詩人だからね。

 

新潟その一。

ライブでばかり、すくなくとも10回は訪ねている。

その半分以上は五泉市村松エリアで、当地にかつて実家に住み込んでいた若い衆が婿入りし、彼の厚意でよく呼んでもらった。北方文化博物館や、そのなかのカフェ、またはスナックみたいな店、大小問わず、たのしい思い出が多い。

ただ、こんなことを言うと失礼にあたるのかもしれないけれど、「ここらでいちばんおしゃれな店で」と連れて行かれたダイニングバーでは、ジャズや洋楽ではなく、野球中継が流れていた。もう10年近く前の話だが、これはいちおう地方都市たる京都人のわたしに「鄙」というものを強烈に印象づけ、考えさせるひとつの契機となった。

新潟市はバンドで行った。リハーサル後に商業施設みたいなところでご飯を食べようとなって、みなは寿司に一直線だ。しかし、キクチは生魚が不得手(いまでは白身なら食べられる)、ましてや生魚と米飯を一緒に食べるなど、まだ「絶対アタる牡蠣」を食べたほうがましだ、という人間である。

「ぼくは隣の洋食屋さんで食べるから、あとで合流しよう」と提案すると、岡田、村田、村島、濱崎(列記しましたが当時のバンドメンバーです)「いやいやいや、じゃあおれたちも洋食でいいよ」と。涙が出るではないか。うつくしきメンバー愛。

しかしどう考えても1対4では味が悪い。それで「あ、ネギトロ丼なら食べられるかも……」と寿司屋の店頭メニューを見ながら、折れた。

みなが「ブリがとろけるー!」とか「カニ汁やばいっすねー!」と目を細めたすきをぬすんで、醤油じゃぶじゃぶかけまわし、卓上のわさびを追加し、醤油わさびご飯化して、食べきった。

ライブ後の打ち上げはそのままハコのなかで鍋。九州の夜がスペインのように長いのは知っていたが、このときもなかなかだった。なにしろ、ふつうのお客さんで来てる知らない女の子たちがいつまでたっても帰らずクイクイと酒杯を空けている。

悪乗りをした誰かが(自分だったかもしれない)「この5人のなかでいちばん男前は?」なんて訊いて、一票も入らなかったわたしは最後、床に寝転がって泣きながら酒をのんでいた。嘘のようなほんとうの話。

後日、ソロでそのライブハウスに行ったら、楽屋に一升瓶がある。なんと振る舞い酒だ。気持ち良くって、出番までに三合くらいのんでしまった。終わるとまた酒、鍋。脳みそが馬鹿になってゆくのがわかりますね。

 

新潟その二。

長岡駅構内にあるうどん屋はうまかった。

春日山で1時間に1本しかない電車をタッチの差で逃してしまったので、目的地である隣駅まで歩こうかとおもったのが運の尽き。地理不案内なのは差っ引いても、たっぷり1時間かかった。しかも、上り道下り道。まわりになにもないような場所を、炎暑のなかあてどなく歩く。ハンター試験ってこんなかんじだったのか。あれですこしだけ軟弱な魂が鍛えられました。これも鄙あるある。

それはさておき、上越では往生した。なにも好き好んで真冬にばかり行かなくても……とおもうのだけれど、それは実情を体感した今の話。

なにしろ、車かなにかのうえに雪が積もっているのだろうな、とおもった1、2メートルが、まるごとそのまま雪だったりするのだ。

ライブハウス内には石油ストーブが欠かせない。そして、終われば、やはり鍋。関西でも打ち上げに鍋を出すライブハウスは少なくはない。季節感は別として、単純に採算の問題だったり、出演者の交流がすすむ、という狙いもあるだろう。けれど、ここでは鍋でないと物理的に心身が滅びちゃう。唐揚げやフライドポテトなどいらないのだ。熱、湯気、ある意味、押しくらまんじゅうをしているようなものだ。

そしてうまい日本酒がある。

なぜだかわからないが、打ち上げになると(あるいは楽屋)新潟ではメニューにないうまい酒が唐突に出現するような気がする。自然、酩酊し、車までの数十メートルの距離のなか、雪のうえに倒れ込んでみたりする。「ひゃっけーなー」「それ、新潟弁とちゃうやろ」

 

福井。

小さいころから8月になると高浜の曾祖母の家(といってもすでに亡くなっていたので別荘のようなものだったが)に家族でゆく。

ちょうど家の前がすぐ海なので、浜から投げ釣りをしたり、千畳敷でまた釣りをしたり、数キロ沖合の岩礁まで泳いで釣りをしたり。

キクチ、こう見えてもそこそこアウトドアなんである。好きじゃないだけで、できなくはない、と、えっへん、胸を張っておこう。

福井といえばかつて刎頸の友だった演劇人・谷竜一の地元であり、またこうした地縁もあったものだ。

大人になってからは、一度だけ、パラダイス・ガラージ豊田さん、写真家の徐美姫さん、編集者で現・赤々舎の姫野希美さん、そのスタッフ新庄くんと展示会およびライブのため遠征した。

たしか2007年かそのあたりだったとおもうけれど、越前そばというのが、びっくりするくらいおいしかったことをおぼえている。小食のわたしが三種盛り(天ぷら、おろし、もうひとつなにか)みたいなのをぺろり平らげたわけだから、ご信用めされたい。

数日間の滞在の間、わたしと新庄くんは地酒をたらふくのみ、くたばり、きまって豊田さんに「朝だよ……」とやさしく起こされるのが常であった。

嗚呼、若さとは向こう見ずの死に水。

 

さて、つらつらと日本海随想を綴ってきたわけだけれども、はたして何が言いたかったかというと、はて、とんと判じ得ぬ。

 

冬の日本海というものは、それこそ東尋坊だとか、ちょっとナーヴァスなイメージが強いようにもおもうのだが、「日本海の海の色は濃いという」この一言の白眉は、あえて「日本海の色は濃いという」としなかったところではあるまいか。

ふつうなら、物書きは(祖母は一冊だけ上梓したものの、正式な物書きではなかったのだが)重複を嫌う。なにしろ日本海の海の色、なのだから。

しかし、わたしはここに、あえてその位相を分けた祖母の感性の発露を感じる。つまり、日本海・ノットイコール・海としての運用だ。天国(クリスチャンだったので)の祖母に笑われるかもしれないが、ここにおける日本海という表現を翻訳(?)するなら。

 

日本海をエリアとして、俯瞰としてとらえて、そこから分け入ってゆく映像的視線。

あるいは、「日本海の海の色」という舌の上で転がすとこころよい響き。

そして、「~という」における、振って落として距離感をキメる間(ま)の美学。

小説であるとか、随筆であるならともかく、こういったワンフレーズものは、ほとんどすべてセンスに由来するので、そのひとの言語的反射神経でできているみたいなところがある。

おばあちゃん、孫はなんだかよくわからないことばっかり書き散らしているけれど、おれだって、自分の才には自信を持ってる。天才肌の凡人あたりが現状関の山かもしれないにしても。でもね、おれらしく、もうちょっとがんばってくるよ。

 

日本海の海の色は、濃い、という。