キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

ラーメン食べたい

新年あけましておメーデーメーデーこちらはミュージック現在地は2018。

相棒の歌詞をパク…パクチーしつつ華麗に登場しましたキクチです。

とっくに9日とはいうものの、松が取れるまではそれでいいじゃない。新年だもの。

 

まったく関係のない話からフェードインすると、七草粥というのがあります。あれはしみじみさわやかにうまいものです。

で、実家では前夜にですね、一族郎党うちふるって包丁やすりこぎ、火箸といった凶器を手に手に、台所に集結するわけだ。……そう、殺草事件がはじまる……。

なにしろ七草粥の下ごしらえというのは「ちょっと危ないものを持ったひとたちが無表情で歌をうたいながら野菜を殴殺、撲殺する」という悲惨な様相を帯びています。

そこでだ。金田一耕助じゃないけど、その歌がですね、キクチ、この年になるまで全国共通だとおもっていたんだ。でもどうやらそうじゃないらしいということを新聞の記事で知り、愕然。いろいろあるんだね。

 

わが家のは「唐土の鳥が日本の国に渡らぬ先に七草叩く何叩く」。

節に忠実に表記すると「とーうどーのとーりーがー、にーほーんーのーくーにーにー、わーたーらぬさーきにー、ななくさたたくなにたたく」となり、そしてめちゃくちゃマイナーコード。陰鬱。不穏。吹雪に閉ざされた山荘。途絶した外部との連絡手段。不気味なメッセージとともに量産される死体……ああん、もう。クローズド・サークル!

七草連続殴撲殺事件におけるこの歌、そう、重要なキィ・ワードなんです。また夏くらいに会ったとき、わたしは絶対忘れてますが、よかったらお宅のを教えてください。

 

さて、そんな1月7日にキクチがなにをしていたかというと、鍋してました。

正確にいえば、旧友タカハシタクマ(バンド「ステレオタイプ」のフロントマンにして元職場の先輩。余談だが実家が隣町。徒歩1分)主宰の弾き語り新年会的なものに、参加していたの。キクチ、参加していたの。

もっとも、わたしには弾き語り時の名義としてもう十何年も使っている「EADGBE」というものがある。みなさん、この謎がおわかりでしょうか。

EADGBEとはつまり、ギターのレギュラーチューニングである。「人生のチューニングを直したい」を売り文句にまったく売れない活動を全国レベルで繰り広げる被虐的なアーティスト、それがイエデグッバイ。あ、そうそう、こう表記して「イエデグッバイ」と訓みます。いまのところ、わが人生においてもっとも「どや見たか!」感のある言葉遊びなのだけれど、幸か不幸か誰もそのきらめくセンスに気づいてくれないのが悩みです(京都府・33歳・男性)。

 

当日は、8組の出演者がルーレットによって1曲ずつ歌ってゆくという、「すべらない話」形式での開催でした。うち、テレビないから知らんけど。

イエデくんは3曲歌いました。もっともそのうち2回は「★」で、つまり他薦(自薦?)なので、どれだけやりたかったんや工藤……とキクチのなかの関西人はツッコんだ。あれ、三人称と一人称が混然一体。融通無碍。和光同塵。涅槃。カート・コヴァーン。

 

ともあれ22時ごろにはよろよろと音楽部門の幕もおり、そこから本格的に新年会a.k.a鍋とあいなった。海老と鶏の鍋だった。ようだ。わたしはおつゆだけいただいて中身を確認していないのであしからず。

手持無沙汰になったキクチは、33歳風をふかせて、遊びにきていたべっぴんさん4人と、かわはらだゆうま(バンド「ツバクラメ」のフロントマン。元後輩。余談だがだいたい口が開いている。気配りの天使)、稲垣くん(名古屋のミュージシャン。5年ぶりくらいに会った)を無理やり引き込んで、聞き覚え程度のワード人狼をはじめた。

 

ワード人狼とはこうである。

2種類のお題が出され、その「仲間はずれ」を対話で探し当てるゲーム。

たとえば、6人のうち、5人には「カニ」、1人には「海老」というお題が割り振られている。多数派も少数派も自分がどちらに属しているかはスタート時点では判じ得ない。

とはいえ、原則的にお題は類義的、隣接的なことばなので、最初はおそるおそる「海産物……ですよね?」など瀬踏みから入る。

もちろん、そこで「脚は何本だっけ」といったクリティカル・ワードが出てきた瞬間、より正しくいえばその発言を聞いた場の雰囲気がとくに違和感につつまれていなければ、「海老」のプレイヤーは自分が少数派であることがわかる。逆にいえば、そのとき「えっ」という空気であれば、「海老」は多数派かもしれない。もっとも、海老にもいちおう脚はあるといえば、あるのだが。

 

こういうのを、だいたい3分タームでやる。1時間半くらい。たのしかった。

GM込で7人。

手には包丁やすりこぎのかわりにグラスやたばこだが、存分に、叩いたり叩かれたりした。言葉遊びほどおもしろいものがこの世に存在しえようか。キクチの白眉は多数派「ディズニーランド」時に少数派「USJ」を引き、途中で気づき完全にステルスして無辜の村人……じゃないや友だち、を吊った……じゃないや、疑い先に仕向けたプレイであった。ああいうことが常にできれば対面人狼でも強くなれるのにね。

 

泥酔した。

最後は終電をなくしたべっぴんさんたちに駄々をこねてラーメン。

注文しないのも何だから、と枝豆と餃子を頼んだふたりのまえで半年ぶりくらいにラーメンを啜った。随喜の涙。ギットギトの背脂が売りの店なのに背脂なしでお願いした。なんとなく、七草の日だとおぼえていたのだとおもう。あ、でも、ネギ多めで(注:ネギは五葷であって七草ではない)。うまかった。しみじみうまかった。なにをやっているんだわたしは。

 

唐土の鳥はもう、日本に渡ってきただろうか。

 

 

 

 

「1219」

なるべくいろんなひとやものの

息遣いを聞いていたい

日本語の文法からはなれた脈拍、トク、トク

孤独の奥にぼくにはないお国訛り

 

世界よ

明日もそれなりの顔して会おう

あいしているよ

あいしている

 

砕け散ったガラスのうえで

踊れ、わたしの自由

汗をかいて、存分に冷えろ

踊れ、わたしたちの自由

 

あなたの呼吸は止まった

思い出は常に一方通行でいまだ嫉妬してるんです

何十何回目かのなつかしい誕生日

心臓はまだあたたかいな、トク、トク、トク

 

罪の名前をかぞえても

到底今に追いつかない

世界よ

明日もそれなりの

顔して会おう

 

あいしていたよ

きっと

あいしていたよ

踊れわたしたちの自由

 

 

  

フィルムとシャッター

きのうの昼から今朝にかけ、BAR choriにて妖怪ぶちまけ娘の卒論提出おめでとう呑み会を粛々と執り行った。

 

BAR choriというのは黙っていれば肴が出てくる、要するにわたしの家であって、妖怪ぶちまけ娘は彼女が誕生日ケーキやらワインやらなにやら、とにかく前世の業に憑かれたごとくなんでもぶちまけることに典拠する。

そういえば、どういういきさつで彼女と親しくなったのかまったくおぼえていない。このあいだ、スマホで写真を撮るときのピントの合わせ方を教えてもらったはずなのに、これまた忘れてしまった。「好きな日本語は?」と問われて「散らかす」と答えるわたしである。散逸、おおいにけっこう。断簡零墨だっていいじゃないか、詩人だもの。

 

土曜日の昼酒はやけに身体に染み、それでも、ご対面がしらふなのはひさしぶりだった。チューハイからはじめる。ストロング・ゼロが違法ドラッグ化した近未来を書いたくだらないけどおもしろいweb小説を読んだ話などした。この、「くだらない」というのはキクチの母の口癖で、しかしたいていは「~けどよい」「~けど好き」に連結する、ある種の逆説的褒め言葉である。わたしもそのDNAを、すくなからず受け継いでいるようだ。

なお、わが家特有(?)の方言、隠語、俗諺として「死ぬ」を「滅びる」と言う。

もっともこれは、賞味期限が切れたものにも適用される。「あの塩辛、滅んだから」みたいに。なんとなく、うつくしい、とおもう。

 

妖怪ぶちまけ娘はちょうど10歳年下で、留学していたため、この(23歳の)タイミングになった。

論文(英文)の内容を「A+だよ」(想像)とやたら自画自賛するので「タイトルは?」と訊いたら「恥ずかしいから教えない」と言う。

「自分の子どもみたいなものじゃないか。自分の子どもに恥ずかしい名前をつけるやつがあるか」「どうせわたしは高校留年の大学中退なのだからわからない」と押してみてもかたくなに教えてくれぬ。

キクチはことばこそ標準語と東京弁のハイブリッドではあるが、魂は慎み深い京都人なので、そこいらで追求を止めたが、無理をしても聞き出しておけばよかったかもしれない。

 

信州佐久出身のぶちまけ娘は、BAR chori店主がなんとなく(本日二度目)つくっていた大根と里芋と鶏の煮物を食べて「茶色くない煮物がこの地上にあるとは…」と絶句していた(自慢しています、ごめんにゃさい)。どや見たか!これが京都や!と言いたいところだが、北海道の昆布はともかく、北九州のあごだしと大分の椎茸を使っているので、下地にまったく京都感はない。せやかて工藤…。

筆の滑るままに作り方を伝授する(おっ、檀一雄先生のようですね)と、昆布、あごだしパック、乾燥しいたけ、酒に、銀杏切りなり、半月切りなり、分厚めに好きに切った大根を水から煮る。沸騰する直前に昆布を上げ、中火にして数分泳がせ、あごだしも抜く。なお、里芋は洗ったのち一緒に入れてしまう(煮崩れしないので)。沸騰したあたりで薄口醤油、砂糖を加え、いったん弱火に戻す。再度煮えたら火を切って、数時間後(20分、30分後でもいいが、味を染みさせたいなら翌日食べるくらいの気概で臨むとよいとおもう)、鶏モモ切り落とし、生姜を入れ、さらに煮立たせる。鶏の場合、アクはほぼ旨味というか雑味の薄い油分といって差し支えないので、しゃくるのはお勧めしない。味がぼんやりしていたら岩塩の出番だ。好みでネギの青いところを足してもよい。いわば鶏スープのような味覚が前面にあり、ボトムには和の重厚さもある。

 

さて。

呑むとなればとことん、であるから、のんでのんで、たまに寝て、起きてまたのむ。

だいたいそういうふうにできている。

「好きな英単語は?」と訊かれ、「wonder」と答えたら、なんとそれが一致していたりして、われわれはハイタッチを交わしたことであったよ。

 

結局、なにも具体的な卒論提出祝いはできず、ただ店を開いただけであるのだけれど、約丸1日、のんで食べてしゃべってねむって、たのしかった。彼女は頭がいい。頭が悪いひとなんてそもそも名刺交換で終わってしまうから、当たり前なのかもしれない。でも、頭がいいというのはね、言うなれば5月の風を「薫風」と表現できるようなひとのことだとおもうのです。勉強がどうこう、そういう問題じゃない。どんな偉い役職についてるかのみの話でもない。世界に都合良く利用されないこと。その地力があるということ。

切ったばかりの髪の毛も、浅瀬と深海の間くらいのネイルもとてもきれいだった。

web小説で「ニューキーツ」(シリーズ)というのがあって、ご存知の方はそこまでたくさんおられないだろうけど、登場人物たるイコマの気分になった。いや、これは若干正確な表現と遠いかしら。でも、コンフェッションボックスたるBAR chori。

 

これからもたくさんのことを忘れてゆくのだろう。

そのたび、なんだか身のうちのふるえるような、出会いや別れが待っていればいい。

ピントの合わない目で、ちゃんと見ているよ。ずっと。

 

 

 

 

日本海の海の色は濃いという

日本海の海の色は濃いという。

これはわが父方の祖母がふともらしたひとことを、わが父(つまり息子ですね)が著書にてしれっとパク……パス……いやパスティーシュじゃないからなんていうか、パク……たフレーズなのだけれど、わたしは年々、冬の陰翳がふかまるころには、日本海慕情というようなものにとらわれる。

地縁はあるけれど、血縁がないのですよね。

以下、日本海(正確にいえば日本海側)随想。

 

金沢。

近江町市場の地下にある店でライブをして、オオトモさん(仮名)という泥酔絡み酒おっさんにしつこくくだをまかれ、「まくならてめえの話にしやがれ!」と威勢良く啖呵を切って飛び出し、しかしこちらも千鳥足だったもので、片町にて自転車置き場のチェーンに足を取られて盛大に転倒する、なんてこともあった。「ヤッホー茶漬け」に行かないか、と同行の地元出身の女の子が言ってくれたのだが、折悪しく雨もそぼ降り、宿はみつからず、タクシーでずいぶん遠くまで行った。セックスもせずに寝た。どこかさみしい夏だった、あれは。

家族に関していえば、だいたい毎年雪の頃に片山津へ旅行するのがわが家のならわしだった。「矢田屋」という旅館で、のちにここが将棋のタイトル戦でも使われたということを知って、わたしはおどろいたね。物心ついたのが1980年代後半だから、屹度観戦記などに出てくる仲居さんとも接していたにちがいない。

この家の記憶では、その後、別館的に、モダンなホテルアローレというのができて、一度そちらに投宿したのだけれど、食事処で昼飯に頼んだものが20分、30分経ってもいっこうに出てこない。それで、父親(蕎麦を所望)の堪忍袋が切れてしまって、「帰るぞ!」と言い出し、たいへんな一幕となったことをおもいだした。わたしがそれなりに忍耐強いというか、「いま隣のローソンに買いに行ってるんや」などと京都ジョークを多用するようになった遠因は案外このあたりにあるのかもしれない。

ほかにも金沢では10代時分、30代の主婦と兼六園に行ったり、女子高生とカラオケに行ったりした。いずれも淡い交わりである。相手、詩人だからね。

 

新潟その一。

ライブでばかり、すくなくとも10回は訪ねている。

その半分以上は五泉市村松エリアで、当地にかつて実家に住み込んでいた若い衆が婿入りし、彼の厚意でよく呼んでもらった。北方文化博物館や、そのなかのカフェ、またはスナックみたいな店、大小問わず、たのしい思い出が多い。

ただ、こんなことを言うと失礼にあたるのかもしれないけれど、「ここらでいちばんおしゃれな店で」と連れて行かれたダイニングバーでは、ジャズや洋楽ではなく、野球中継が流れていた。もう10年近く前の話だが、これはいちおう地方都市たる京都人のわたしに「鄙」というものを強烈に印象づけ、考えさせるひとつの契機となった。

新潟市はバンドで行った。リハーサル後に商業施設みたいなところでご飯を食べようとなって、みなは寿司に一直線だ。しかし、キクチは生魚が不得手(いまでは白身なら食べられる)、ましてや生魚と米飯を一緒に食べるなど、まだ「絶対アタる牡蠣」を食べたほうがましだ、という人間である。

「ぼくは隣の洋食屋さんで食べるから、あとで合流しよう」と提案すると、岡田、村田、村島、濱崎(列記しましたが当時のバンドメンバーです)「いやいやいや、じゃあおれたちも洋食でいいよ」と。涙が出るではないか。うつくしきメンバー愛。

しかしどう考えても1対4では味が悪い。それで「あ、ネギトロ丼なら食べられるかも……」と寿司屋の店頭メニューを見ながら、折れた。

みなが「ブリがとろけるー!」とか「カニ汁やばいっすねー!」と目を細めたすきをぬすんで、醤油じゃぶじゃぶかけまわし、卓上のわさびを追加し、醤油わさびご飯化して、食べきった。

ライブ後の打ち上げはそのままハコのなかで鍋。九州の夜がスペインのように長いのは知っていたが、このときもなかなかだった。なにしろ、ふつうのお客さんで来てる知らない女の子たちがいつまでたっても帰らずクイクイと酒杯を空けている。

悪乗りをした誰かが(自分だったかもしれない)「この5人のなかでいちばん男前は?」なんて訊いて、一票も入らなかったわたしは最後、床に寝転がって泣きながら酒をのんでいた。嘘のようなほんとうの話。

後日、ソロでそのライブハウスに行ったら、楽屋に一升瓶がある。なんと振る舞い酒だ。気持ち良くって、出番までに三合くらいのんでしまった。終わるとまた酒、鍋。脳みそが馬鹿になってゆくのがわかりますね。

 

新潟その二。

長岡駅構内にあるうどん屋はうまかった。

春日山で1時間に1本しかない電車をタッチの差で逃してしまったので、目的地である隣駅まで歩こうかとおもったのが運の尽き。地理不案内なのは差っ引いても、たっぷり1時間かかった。しかも、上り道下り道。まわりになにもないような場所を、炎暑のなかあてどなく歩く。ハンター試験ってこんなかんじだったのか。あれですこしだけ軟弱な魂が鍛えられました。これも鄙あるある。

それはさておき、上越では往生した。なにも好き好んで真冬にばかり行かなくても……とおもうのだけれど、それは実情を体感した今の話。

なにしろ、車かなにかのうえに雪が積もっているのだろうな、とおもった1、2メートルが、まるごとそのまま雪だったりするのだ。

ライブハウス内には石油ストーブが欠かせない。そして、終われば、やはり鍋。関西でも打ち上げに鍋を出すライブハウスは少なくはない。季節感は別として、単純に採算の問題だったり、出演者の交流がすすむ、という狙いもあるだろう。けれど、ここでは鍋でないと物理的に心身が滅びちゃう。唐揚げやフライドポテトなどいらないのだ。熱、湯気、ある意味、押しくらまんじゅうをしているようなものだ。

そしてうまい日本酒がある。

なぜだかわからないが、打ち上げになると(あるいは楽屋)新潟ではメニューにないうまい酒が唐突に出現するような気がする。自然、酩酊し、車までの数十メートルの距離のなか、雪のうえに倒れ込んでみたりする。「ひゃっけーなー」「それ、新潟弁とちゃうやろ」

 

福井。

小さいころから8月になると高浜の曾祖母の家(といってもすでに亡くなっていたので別荘のようなものだったが)に家族でゆく。

ちょうど家の前がすぐ海なので、浜から投げ釣りをしたり、千畳敷でまた釣りをしたり、数キロ沖合の岩礁まで泳いで釣りをしたり。

キクチ、こう見えてもそこそこアウトドアなんである。好きじゃないだけで、できなくはない、と、えっへん、胸を張っておこう。

福井といえばかつて刎頸の友だった演劇人・谷竜一の地元であり、またこうした地縁もあったものだ。

大人になってからは、一度だけ、パラダイス・ガラージ豊田さん、写真家の徐美姫さん、編集者で現・赤々舎の姫野希美さん、そのスタッフ新庄くんと展示会およびライブのため遠征した。

たしか2007年かそのあたりだったとおもうけれど、越前そばというのが、びっくりするくらいおいしかったことをおぼえている。小食のわたしが三種盛り(天ぷら、おろし、もうひとつなにか)みたいなのをぺろり平らげたわけだから、ご信用めされたい。

数日間の滞在の間、わたしと新庄くんは地酒をたらふくのみ、くたばり、きまって豊田さんに「朝だよ……」とやさしく起こされるのが常であった。

嗚呼、若さとは向こう見ずの死に水。

 

さて、つらつらと日本海随想を綴ってきたわけだけれども、はたして何が言いたかったかというと、はて、とんと判じ得ぬ。

 

冬の日本海というものは、それこそ東尋坊だとか、ちょっとナーヴァスなイメージが強いようにもおもうのだが、「日本海の海の色は濃いという」この一言の白眉は、あえて「日本海の色は濃いという」としなかったところではあるまいか。

ふつうなら、物書きは(祖母は一冊だけ上梓したものの、正式な物書きではなかったのだが)重複を嫌う。なにしろ日本海の海の色、なのだから。

しかし、わたしはここに、あえてその位相を分けた祖母の感性の発露を感じる。つまり、日本海・ノットイコール・海としての運用だ。天国(クリスチャンだったので)の祖母に笑われるかもしれないが、ここにおける日本海という表現を翻訳(?)するなら。

 

日本海をエリアとして、俯瞰としてとらえて、そこから分け入ってゆく映像的視線。

あるいは、「日本海の海の色」という舌の上で転がすとこころよい響き。

そして、「~という」における、振って落として距離感をキメる間(ま)の美学。

小説であるとか、随筆であるならともかく、こういったワンフレーズものは、ほとんどすべてセンスに由来するので、そのひとの言語的反射神経でできているみたいなところがある。

おばあちゃん、孫はなんだかよくわからないことばっかり書き散らしているけれど、おれだって、自分の才には自信を持ってる。天才肌の凡人あたりが現状関の山かもしれないにしても。でもね、おれらしく、もうちょっとがんばってくるよ。

 

日本海の海の色は、濃い、という。

 

 

 

 

千駄ヶ谷戦記

「マジか」「この子マジか」

心のうちに藤森先生が降臨した。

と、いっても、場所は日本将棋連盟東京会館2F道場。

おそらく小学校低学年であろう彼は延々ノータイム指し。こちらが10秒でも考えこむと、すぐに隣の対局を覗きこみ、それにも飽きると椅子の上で足をぶらつかせながらこっちの顔をじっと見つめる。

(早く指してよ)(このオジサン、なんでこんなとこで考えるんだろ)(ひまだなァ)

なんて、わたしはサトリの妖怪ではないから、これはただの被害妄想でしかないのだが、おそらく八割がとこ、当たっているだろう。

 

もともと「知識」として、子どもは早指しだということはわきまえていた。実際、小学生名人戦なんかも、映像で観るかぎり相当なもので、しかしそれはあくまで小学生にして有段者という高次元での話だとおもっていた。

ちがった。

わたしの対局相手はみな、級位者のなかでも下位にかかわらず、マシンガンのように手が伸びる。

それが序盤ならまだわかる。けれど、中終盤になっても変わらない。今回対局した5人の小学生~10代半ばごろの少年たち、いずれも同様であった。

キクチは、5局指して2勝3敗。

そのうち2敗は反則負け(二歩はまだしも、もう一度は焦って自分の歩をとってしまうという愚挙)とはいえ、あえなく13級の認定を受けた。

もう1敗は認定後の最終局、左香落ち上手をもってのもの。

これにより、キクチはなんと「駒落ち初体験が上手」という世にも奇妙な経歴とあいなった。

 

これでもわたしは今年から(指し)将棋をはじめて、ウォーズ5級なんである。それも10秒で。けっして長考派なわけがなく、棋神だって、はじめたころにbot相手に一度使ってみただけで、天地神明に誓ってそれ以外頼ったことはない。

もちろんウォーズの5級というのは、実力5級もいれば、町道場での10級くらいもいる、というのもまた「知識」としてはわかっている。

けれど、いくらなんでも、ここまで自分がヘボだとはおもいもしなかった。「SLUM DANK」安西先生ふうに言うならば「下手くその上級者への道のりはおのが下手さを知りて一歩目」といったものだろうか。

 

星は●○●○●と綺麗に並んだ。もっとも、囲碁やオセロなら…などと言わないでいただきたい。

キクチは先後とわずすべてゴキゲン中飛車か5筋位取りに美濃、片美濃囲いなどといった「いつもの」。

2局目は定跡知らない同士対決、といった趣きで、なぜか序盤で相手は飛車まで使って穴熊(的なもの)を組んでしまった。はなっから大駒が死んでいる。ヤッター!とおもいながら大優勢を築いたところで決着。

4局目は今回のなかでも最長時間(子ども相手で20分超かかった)で、実力的にもいい勝負、といったかんじだったが、最後は駒得がものをいい、飛車角を叩ききって金銀を剥がし寄せきった。

もっとも、そのあと5局目ではその真逆のパターンを喰らい、詰ましあげられてしまう。とにかくわたしには8筋が鬼門です。

 

1500円の席料を払っているのに「ここまでです」と止めたキクチのことを、手合い係の女性はすこしいぶかしげに見遣った。

日曜日の午前10時(開場)からやってきて、2時間指しただけで帰るスーツ(というか準礼装)のロン毛ヒゲ男は、彼女の目にさぞかし奇異にうつったこととおもう。

しかし、もう脳みそが汗をかきすぎていて、頭もウニになっていて、菜の花がトウが立っただけでしぼむような、詩人は頭が悪いから精華大に行った、そんな状態だった。

生まれてはじめて知らないひとと対面で将棋を指し、しかもその全員が15歳から下手すると25歳くらい年下で、強い(わたしが弱いだけという説もある)。

また、道場の雰囲気、つまり数十人のかすかな囁き声、比して高い駒音、一種の儀式にも似たようなその神聖な空間。慣れてしまえば居心地よくなるのかもしれないが、門外漢におけるプレッシャーたるや、生半可なものではなかった。2局拾えたのは僥倖だった(最初は全敗も覚悟していた)とはいえ、もう、オジサンのライフはゼロよ!というところである。

ちなみに5局目の相手(中学生にしてはふけて見え、10代後半には稚い男の子)は完璧に指し手のモーションが羽生棋聖で、なんか悔しかった。

 

かくて、わたしの初道場体験は、まさかの総本山・千駄ヶ谷にてつつがなく終わった。

意外だったのは、これまで対面では友人としか指したことがなく、仮に相手が格上(元将棋部など)でも特段勝ったうれしさもなかったのだが、まったく知らないひとを負かすのは身体の奥がふるえるような高揚感があったということだ。むろん、逆はその倍も「ああん」となるわけだけれど。

対局と対局のあいま、駐車場の喫煙所でたばこを吸いながら「がんばれがんばれキクチ」「負けるな負けるなキクチ」と、どこのコバケン先生だ、どこの脇先生だ、どこの今泉先生だ、とおもいながら、それでも頭をポカポカ叩いたりした。

 

帰りに中村王座の「木鶏」揮毫の扇子を買った。

これまでは久保王将「万里一空」、佐藤(康)九段「千思万考」を使っていたけれど、いずれもいただきもので、はじめてみずから購ったということになる。

中飛車党としてはちょっとどうかとおもうのだけれど、単純に語意だけでいえば、いまの自分らしいのはこれだな、とおもう。

 

そんなわけで、将棋を指すわたしの友人たちよ。

具体的にいえばテツさんや村島、ニシヤマ、ナツキくん、ハルラモネルよ。

また今度、一局やりましょう。

 

ビールとチューハイをしこたま買い込んでキクチは新幹線に乗った。

疲労困憊していたにもかかわらず、プルタブはちゃんと開いた。まだ初心者と初級者の狭間くらいにいるけれど、悪くないな、とひとりごちる。

むかし故・升田幸三名人が記録係の故・大内九段(当時奨励会員)にむかって「きみは何級だ?」「そうか、いいなあ。どこまでも上がれる。しかしわしにはもう上がない」とおっしゃったのをぼんやりおもいだした。

 

三河安城を過ぎたあたりで、ほどよく酔いがまわってきて、うとうとしながら。

 

「将棋、大好きです」

「今度は嘘じゃないっす」

 

 

 

「目の前のつづき」

死んじゃうかもしれないから

家の鍵は開けておくね

 

「見つけて」

そんなサインを

単純に、明快に

遊びの誘いと勘違いしてしまった

 

音信不通、冬、ふる、えながらのクルーズ

 

閉じた瞼の裏側

毛細血管で埋め尽くされて

赤いな

和解がきかない若さもある

いつでも季節は途中のままなのに

 

遠くの、孤独と、ぼくの奥のモノクロ、遅くも早くもない速度

進んでゆくだけ

 

目の前のつづきに

嘘はなくとも

やけに驚きは

歳をとっている

 

さっきまで首を締め上げていた真綿が

今ではやさしく肩をあたためて

夜の間いっぱい終わらないたたかい

ぼくがきみを謀ったことはあったかい

 

炭鉱のカナリア、がなりたてた、かなりリアルな夢ばかり見た

話がある、まだ間に合う、ちょっとだけ遅刻する

いつまでも季節は途中のままなのに

 

目の前のつづきに

たとえ嘘はなくとも

やけに驚きは

歳をとって

あんなに弄んだはずのことばを

他人事のように見遣るだけ

密室殺人のトリックは崩れた

はなから裏切られた、そんな幸せもある

 

音信通ず、冬、ふる、えながらのブルーズ

 

いつだってぼくらは

途中のままなのに

 

かけがえのある日々をかけちがえても

世界は世界でしかないのだから

 

 

 

  

 

夕暮れ時を待ちながら

妖怪ぶちまけ娘がやってきて、今度はなにも起こらなかった。

なにしろ彼女は、誕生日ケーキを落とし、ワインをひっくり返し、これまでキクチ家に多大なる損害を与えてきた一種恍惚の人である。成長したんだね。えらいえらい、とわたしはこころのなかでそっと彼女の頭をなぜた。

 

その日の昼には、旧い友だちから、ずいぶんと理不尽な電話があった。理不尽というのは彼女側の問題ではなくって、彼女が直面したとある出来事を指す。バカオロカキクチは寝起きの焼酎をのみながら3時間ほどそれを聞いていた。ときどき茶々を入れながら。もっとも、その内容がおなじく旧友と絡むものだったので、それなりに傷んだ。

ずっとみんなと空き地で遊んでいたはずなのに、友だちはどんどん「夕飯よ」の声に呼ばれて家に帰ってゆく。気がつけばひとり、ふたりと影が消えている。欠落ではなく、喪失。持ち重りのする喪失。今の自分の気持ちを喩えるならそういうところである。

とはいえ、みんなもう三十路を越えたのだものなあ、家庭やら仕事やら、このあとはローンや介護や色々出てくるだろうからなあ……致し方なし。と割り切れないあたりにキクチのモラトリアム気質が如実に浮かび出ているようにはおもう。おっ、なんだか今回の雑記はまじめだな。12時間前からのんでいるというのにな。

 

妖怪ぶちまけ娘は会うたび綺麗になってゆく。

はじめて会ったのは20歳のときだったから、たかだか3年程度のつきあいでしかないのだが、「男子三日会わざれば」どころのスピードじゃない。いい女は問答無用ですくすくいい女になるんだ。怖いような、うれしいような。

またそれを観ている自分がゆっくり齢を経てゆくのも、うれしいような、怖いような。

 

朝方、将棋を指した。平手。後手ゴキゲン中飛車

約60手ほど後、「この王様、いただいとくよ」と、塚田名人が大野九段に言ったふうを想像しながら、口にした。

どうしてそんなことが起こりうるのかって?彼女が将棋を指すのははじめてだったからだ(つまりなんにもえらそうに語れない)。

ただ、龍や馬をバッサバッサ切って詰めていくのは、手合い違いとはいえ愉しかったです。感謝、感謝。

 

気がつけば妖怪ぶちまけ娘と20時間近くのんでいた。

前日からかぞえれば(仮眠をふくめ、だけれど)40時間以上になる。

それから10時間くらいぶっ倒れて、鬼のようなふつか酔いを経て、またのんで、のまれて、肴はあぶったイカじゃ嫌なので漬物なぞつまんで、一度断酒(せいぜい半日なんだけどな)を挟んでまたのんで、なんだかんだと今に至る。

 

晩秋から初冬へ衣替えした午後、目にうつるものすべてがなんとなくキラキラしていて、なんだろう、この気持ちは。

 

うん、読者諸賢にはとっくにお分かりのこととおもうが、つまりそれは、酔っぱらっているからです。

わたしはまだ、人気のない空き地で、遊んでいるよ。

夕暮れ時になったって、意地でも帰らないよ。