キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

硝子戸の中

親ゆずりの不眠症で子どものときから損ばかりしている。

はい、坊ちゃんのオールモーニングキョウトはじまりまーす。うそです。しかしねむれぬ。

 

うちのばあやは清ではなく二宮といったが、二宮元気かなあ、と、ぼんやりおもい、冷静に考えたらもうだいぶ前に入寂していた。庭師のシゲさんも料理人の恒夫も運転手の田村もみんなそうであった。ぼくを置いていってしまった。幕は開けたら閉めるもので、風呂敷は広げたならばたたむべきもので、しかし話のマクラがすでに濡れている。どうしよう。

とりあえず焼酎をのもう(のんでいる)。やはり言い直そう。父方の大叔父と母方の伯父ゆずりのアルコール依存で、ねむれないときほど「まだ飲める」と、こころがぴょんぴょんするんじゃ。二代目「巳津彦」を襲名しようかしら。…つい先日「酒史」に改名すると言っていたどの口が言う。この口だ。なんで言っても口は口。はい将棋ファンのみなさんならわかるとおもいますがそれは故・神田辰之助先生のパクリだー!

小人閑居して不善を為しまくる典型がキクチであります。

 

閑話休題

故・原田先生は「花は半開がよく、酒は微醺がよい」と好んで揮毫されたけれど、どうか諸兄諸姉はこの酒品うつくしくあたわざる三十男の戯言に「咲點頭」し(”わらってうなずい”)てくれたまえ。いえ、ほんとにおねがいします。さみしくって泣いちゃう。うさぎだから。ぴょんぴょん。

 

さて、動物といえば竜でも鳳でもないどころか「臥酔」を座右の銘にしたいくらいのぼくは、寝(ようとし)たり酔っぱらっている時間がひとより長い。

昨日もつらつら考えているうち「将棋を”指せる”側にとっては、日本将棋連盟がたとえどうあろうが、なくなろうが、将棋というゲーム自体が消滅することはまずないとおもっているから連盟や棋士に対するアタリが強かったり、あるいは匿名掲示板的なところで侮辱的・揶揄的な発言ができる(ひともいる)のではないだろうか」という仮説がうまれた。もちろんアマ強豪とかは別です。要するに、連盟の運営する大会やイベントとかかわらずして生きている層(の一部)。

 

逆にいうと、ぼくのような、駒の動かし方を知っていて反則もおおよそわかるけれどハム将棋に平手で勝てないレベルの初心者、といううえで、指すよりも観たり読んだりすることがすきな将棋ファンは、連盟がなくなってしまっては興味の行き場所がなくなってしまう。だからぼくは連盟に対して甘いのだろうか。どうなのだろうか。そうつぶやいても「おじゃましまんにゃあ」と答えが訪れてくれるわけではないのだけれど。

 

じっさいのところ、連盟サイトリニューアルの件がずっと気持ちにひっかかっていて、ぼくは「デザインかっこいい!」とか褒めそやしこそすれ、表立った場所で不平不満はいっさい述べなかった。そのかわり、問題とおもう箇所についてはSNSで意見を掬い上げる動きを見せてくださった棋士の先生に直接伝えました。なんていうか、それが自分なりの「ファンの美学(ファンを名乗る美学)」というか、最低限の礼節だとおもっていたんだ。ただ、いざ先述の説をおもいついてしまうと、どうやらこれは自己防衛本能と自己愛がぬるいチークダンスを踊ってるだけなんじゃないか、そんな疑いも否定できなくはない。

 

これらの事案については、すこし時間をかけて考えを突き詰めてみようとおもう。とはいえ、それはぼく自身の「常識という名の偏見」を多少動かすことはあっても、根本的な将棋(というよりは棋界)に対する好意や愛情に関係してくるほどではないだろう。

どれだけクズな人間であっても、品性だけはゆずりたくない。ネット文化とか、時代の流れとか、そういう表現で言い訳ができるようなキクチであるなら、さっさと滅びてしまうべきなのだ。これもずいぶんと自儘かつ見当はずれな自意識なのですけれども。よいのだ。思想は趣味で、趣味は思想。

 

「ものわかりがよくってつまんない」

そうもしも言われたならこう答えよう。

 

「坊ちゃんだからね」

 

脈絡と脈絡の間いきまーす!

わしゃ、下品になったら死ぬんじゃ。