キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

あたらしい世界じゃなくても(2)

午前9時過ぎの三条は、土曜日ではあったが、雨上がりのしずけさが散りばめられていた。あちらこちらに目には見えない水泡のようなものが漂っていて、ときどきそれがパチンとはじけるかんじ。

 

バイト先のシネコンへゆく。

かつて7台あったチケットカウンターはすでに無く、かわりに立派な券売機(自動発券機)が鎮座していた。わずかに人間の担当するボックスが旧ポディアムのあたりに3台あり、そのうち1台はclosed、残った2台にも客が並ぶことはなく、社員が(おそらく)新しいバイトを指導するために開けている、という雰囲気だった。

それでもどうも機械でチケットを買う気持ちになれず、心中スマヌスマヌとつぶやきながら、そちらへ向かう。「一般です」「10時からの聖の青春を」「J8で」。シアター3だからJではすこし前すぎるかなあ、ともおもったが、なるべく周囲にひとの少ないほうがいいので、数秒間の脳内自分会議のすえ、J8、きみに決めた!なお、通路側なのはキクチがパニック障害の前科をもつためで、閉鎖空間(劇場や新幹線など)では定跡手順である。ふふふ。なんかかわいい。余談ですが10代のころは「~障害とか~症とかそういうのかっけえ(意訳)」と、あまりにもばかな憧れ(作品やパフォーマンスのかっこいい詩人にそういうひとが多かったんですね)を抱いていたものの、いざ自分がそうなるとぜんぜん笑えない。けれど笑わないほうがもっときつい。なので笑う。という三段活用で、ほんと、くだらないなりに生きてます。

 

無事チケットを購入し、開場までまだ30分ほどあったので、となりのドトールに入る。小さいコーヒー。砂糖なし、フレッシュ。越智信義さん編の随筆集を再読。

 

封切初日ということもあってか、「聖の青春」が上映されるシアター3は約360席の、MOVIX京都ではもっとも大きな部類に入る劇場だ。数日後からは中規模のところに変わるのだが、はっきりいって不安である。もちろん当日の上映スケジュール的な兼ね合い(他作品との相対的な動員予想など)はあるとして、いやいやいくらなんでも、これは大きすぎやしないか。それは悪いほうに的中した。映画の成功を願う将棋ファンとして、事実とはいえ言うべきではないのかもしれないが、一般人のお通夜でももうちょっと大勢くるだろう、というくらいの入りである。

だがしかし、一面においてそれはほんとうにどうでもいい話。上映がはじまるまでの約20分(予告ふくむ)、おじいちゃんおばあちゃん、ないし、おじちゃんおばちゃんたちの小声での会話に耳をすませていると、これがなかなかにディープなのだ。故・村山先生のエピソードを語るひと、「先日の~戦はこれこれこうだった」などと棋戦の解説をはじめるひと、将棋界の未来について熱弁をふるうひと。ああ、(おそらく家を出るころは)雨の、土曜の朝にここへこの映画を観にやってくるひとというのはたいがいが将棋への熱をもっているのだな、と、なんだかうれしくなってしまう。

 

ぼくは、だまってJ8席にすわっていた。1階からコンセ(売店)のにおいが上がってくる。あの、ハチミツと砂糖とトウモロコシがないまぜになったような甘ったるい「映画館のにおい」。映画館で映画を観るなんて、もう5年以上ぶりだ。

これまで自分が何万枚のチケットを発券したかわからないけれど、いざ客としてこうやって腰をおろすと、ぜんぜんちがった風景がみえてくる。聞こえてくる。香ってくる。

きのうがいかにうつくしくても、きょうがどれほど予測不能でも、「ここから先」はなにがなんだっていいじゃないか。それがたとえ、あたらしい世界じゃなくても。

 

目をとじる。

 

目をあける。

 

「聖の青春」が、はじまる。