キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

すこし足りないな

半袖というのは、長袖に対する有徴の存在なのだろうか。あるいは長袖が半袖の延長線上の不完全なるものなのか。それでは七分袖は。タンクトップは。

またぞろよくわからないことを考えだしてしまった。初夏とはいえ、半袖ではすこし肌寒い夜ですね。キクチだ(えらそう)。

 

ここ最近のぼくだったらだいたい午前8時か9時まで遊んでるといえば岡村ちゃんなわけだが、もはやファミコンもディスコも現世にはないし、カルアミルクやバーボンソーダはあんまり性に合わないので、午前8時か9時までワインの沼でちゃぷちゃぷしている。

余話として、六本木は江戸時代そのあたりに「木」のつく大名家が六つあったから、とモノの本には書いてある。一柳とか片桐とかですね。そのなかの河内松原・丹南藩の高木(元子爵家)がわが母方にあたる。戦後の混乱のなか、大好きだった稀少な昆虫標本が空襲で焼けたり、残ったものも困窮のため売っ払わざるをえなかった絶望ののち、「自然と融解するんじゃあああ」というエキセントリックな遺書をおいて奥多摩山中へ消えた正得さんがキクチのひいじいちゃんである。

ちなみに、ひいじいちゃんには申し訳ないが、わたしは、虫がむり。ちょう無理。「苦虫を何百匹かまとめて噛みつぶした」的な表現をはじめてしたのはだれだろう。田中芳樹な気がするけれど、村上春樹かもしれない。あと、リアルに噛みつぶした瞬間、たぶん死ぬ。自然と融解できないんじゃあああ。

 

まったくもって、帯に短し襷に長し、という季節である。

梅雨入り前のゆううつ。梅雨に入ったらそれはそれでまたゆううつなのだけれど、だいたい気持ちが滅入る材料を探すのがわれながら上手すぎて笑ってしまう。

絶望は絶望のままにしておいてあげたほうがいい塩梅にしゅんでくるのだが、そもそもそれ以前にただの日常的な不安と踊っている。日常的な不安とは、そもそも半袖か、長袖か、半袖なら上に一枚羽織るものがあればいいのかしら、選べない。といったニュアンスである。しれっと季節のせいにしたけれど、わたしの本然こそ帯に長し襷に短し人間なのだ。あれっ、なんかおかしいぞ。

「笑えるうち笑え、いつかきっと泣くときがくる」と故・升田幸三先生はおっしゃったけれど、たどりきていまだサンジュウニ。錯覚いけないよく見るよろし。インスタントな感情でも大事にあつかってやればそれなりにいい味が出るものだ。

 

電話なんかやめてさ、どこで会おうか。

 

きょうは将棋仲間のべっぴんさんが東下し、聖地・将棋会館へ行ってきたらしい。キクチは厚顔にも「扇子!おみやげに扇子!」とだけ連絡した。いったい彼女はなにを買ってきてくれるのか。元来プロの先生の好き嫌いがない(ように努めている)ので、もちろんどの揮毫でもうれしいのにはちがいないが、ちょっとそのセレクトがたのしみだったりする。選べないがゆえの昂揚もある。

 

半袖はやっぱり寒いな、とおもって、なにか羽織るまえに、でも、パソコンがあったかいからいいか、とおもいなおした。

そういえば、きみの隣はすごくあたたかかったな。細くて薄い身体のひとだったな。

女の子ってか弱いもんね、だから庇ってあげなきゃだめだよできるだけ、だけどぜんぜんきみにとってそんな男になれずじまいでごめんなさい、と口をついて、それが誰に対してのものか、わからなくなる、午前4時のあとさき。

 

すこし足りないな。

袖の長さも、アルコールも。

待っていなくとも、そろそろ夜は明ける。