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キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

うどんバラード

ゆうべはうどんを食べて寝た。

清志郎ならクルマの中で、あの娘と手をつないでいるのだろう。

わたしは「なんかよくわかんないけどダウナーだぞ、ついでに胃も痛いかもしれないぞ」という悪い予感のかけらと手をつないでしまったので、おとなしくノバミンをのんで寝た。ネキシウムは効きはじめるまでなんと36時間ほどかかるのだ。「お前はもう死んでいる」と言われてから36時間後に、ひでぶうあべしっ、となる。やすらかに。有情拳をくれよ。

どうも、合法的胃腸系ヤク中のキクチです。

 

うどんといえば、故・大野源一先生である。

関西将棋会館阿倍野(北畠)時代、どうやらそのころ、対局時の昼食はうどんと決まっていたか、ないしは、うどんくらいしか近所で頼めるものがなかったらしい。ふだんの食事は当直というか会館に住んでいた故・角田先生のご夫人が腕によりをかけてつくってらしたとのことだけれど、東京の棋士が遠征してきてたのしみにしていたのは「関西ふうの、出汁のすきとおったうどん」だったという話も聞く。

それも、いまみたいに、釜揚げとか天ぷらとかカレー南蛮とかから選ぶのではなく、基本的には、かけ。その「大」を、大野先生はいつも、小柄なご自身の顔ほどもあるどんぶりをかかえてうまそうに召し上がっていたそうだ。

先生は若かりし時分、といってもすでに四段以上の立派な専門棋士であるが、師匠の故・木見先生以下生活に窮乏し(そもそも戦前、当時の棋士は高段者でも特に関西は似たようなものだった)うどん屋を開業した際、出前持ちをやられていたそうな。それを嘆いた愛棋家の文士や財界人もいたけれど、東京出身、せっかちで毒舌家、人情家で絵に描いた江戸っ子の大野先生、もしかしたらそのころ、関西のうどん文化に目覚めたりされたのかしら。

 

うどん連想ふたたび。

これまた戦時中の話になるが、囲碁の故・藤沢秀行先生は、慰問団として満州渡航。その船中、なにしろ甲板に顔を出せば撃たれるかもしれない、なんてことで団長以下みな船室にすし詰め。そこで博打をしつづけた結果、当時10代半ばほどのシュウコウ少年、大人たちをすってんてんにやっつけてしまった。上陸先の街で彼らに天ぷらうどんをおごったという。「中国のエビはさすがにでけえや」との談話残る。ただ、これには天ぷらうどん説と、天丼説があり、わたしはいまだその真偽を確かめられていない。だって、先生の自叙伝やインタビューでも、あるときはうどんだし、またあるときはどんぶりなのです。だがそこがいい。伝説とはそうしたものです。

 

うどん連想みたび。

そろそろ棋聖戦(将棋のほう)の季節になってまいりました。

となると、注視されるのはホテルニューアワジである。厳密にいえば、ホテルニューアワジのきつねうどんである。すくなくとも、羽生先生が棋聖であるかぎり。

今期はしかも関西の斎藤慎太郎先生が挑戦者なのだ。たいへんややこしいことをいうと、斎藤先生は奈良のご出身。もちろん幼少のみぎりから主戦場は奨励会ふくめ大阪なのだろうけれど、はたしてその「うどん口」はどのようなものか。

わたし、純然たる京都人すぎて、ちょっとよくわからない。ねえ、慎ちゃん、教えて、きみのすきな出汁。きみのすきなコシ。

 

うどんでいえば、昔懐かしい先生方のエピソードもいろいろあるのだけれど、このままいくとただの「うどん語り部おじさん」化してしまうので、このあたりで切り上げて、ワインでものもうとおもいます。というかのんでるけど。

 

ああ、あの娘のねごとが「うどん」だったらいいのにな。

 

ちなみにぼくのすきなのは、なかなか冷めないので鍋焼きうどんです。