愛と和音
「感性とは手持ちのカードのようなもので、まだあるとおもっていても失われてゆく(大意)」
わたしが非常に感銘を受けた先崎学九段のことば。
3時半ごろまで夜っぴて原稿を書いていた。
それからコンビニへ行って、焼酎とたばこ、納豆にお粥、チョコレートとアルフォートという、やや錯乱気味な買い物をした。最近入った若いアルバイト店員は190センチになんなんとする偉丈夫で、とても無愛想だ。しかし誰だってこんな冷え込む晩秋の深夜にそんな買い物をしてゆくロン毛ヒゲの怪しい三十路男に愛想をふりまこうとはおもわないだろう。
自分の目が悪くてよかった、とおもうのは、こういうとき、彼の名札を読めないからだ。
もし仮に田中さん(仮)だとわかってしまえば、わたしのなかで彼は「無愛想な田中さん」として像を結んでしまう。
いまのままなら、他人のなかでもずいぶんと遠い存在としてすれ違ってゆける。
帰宅してしばらくすると、夜勤を終えた食客が帰ってきて、ラーメンをつくりはじめた。コンビニのVLの、安いラーメンなのだが、具はチャーシュー、メンマ、もやし、ネギと本格的(?)だ。
ちゃっかりチャーシューとメンマのお相伴にあずかった。
彼はずいぶんと疲れているようで、昼からも予定があるとのこと、それでもなんとなく人恋しくなっていたので、すこしばかり隣で焼酎をのんだ。
感性は共通言語のようなものだとおもう。
そのひとそのひとに、A(ラ)とかそれぞれ鳴っていて、それが仮に異なったキーでも、うまいこと和音になったりする。
もっとも、克明な言語表現として帰結はしないから感性という言い方をされるのであって、そこはcadenza、cadenza、cadenza……。
「その話前も聞いたで」と言われ、「忘れたぶんだけ楽しめるんだ」なんて強がりを言った。
なんの話かって?
「このひとべっぴんさんでしょ?」って話だ。
三十路の男ふたり、早朝にかたやラーメン、かたや焼酎でくだらない話。悪くない。彼とわたしの共通点は、きょう、おなじチャーシューとメンマを食べた、というだけなのだが、コード進行としてはじゅうぶん合っている(こういう適当なことをおもって言うからキクチバカオロカなのです)。
すっかり夜が明けていた。
エアコンの温度を上げる。
むかしは容易いように感じられた「自分を信じる」ということ、それが最近ではとてもむずかしい。
正確にいえば、それが過去をふくめたものの上に建っているのか、いま現在の自分を曇りない目で眺められているのか、ということでもある。
遠回りは悪くないが、非戦略的撤退ともいえる道草はほどほどにしておきたい。
まだ自分を信じているひとの顔をおもいだして、あらためて、自分を信じたい、とおもう。
自分を信じている自分こそ、まぎれもなく、いっとう格好いいのだから。