キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

男子三日会わざれば生きたり死んだりする

11月23日未明、泥酔してケータイを失くした。

DDでそうとうばかなのみ方をして、途中隣り合った女の子があんまりかわいかったから、わが頭のなかのミトくん曰く「いいぜ、このままいっちゃおうぜ」(※空中ループのアルバムへのコメント)モードになってしまう。気がついたらカウンターに突っ伏していて、その子はもういなかった。悔しいから閉店までまた酒をのんだ。

そのあと木屋町河原町をふらふらしながら、しばらく夜の明けるのを待った。さすがに風俗にはいかなかった。やよい軒に入ると、テーブル席にバーのオーナーや常連客がいた。「よう!」と赤い眼鏡越しにあいさつされたけれど、ぼくはもうべろべろで「どうも…」とまるで「聖の青春」の松山ケンイチのようにしょぼくれて彼らに背を向けて座った。ハンバーグ定食を食べた。サラダと味噌汁は残した。もともと無理筋なんだ。6時か7時か、タクシーに乗った。ぼくのケータイはまだこの地上のありあまる富や喜びのなかにいるだろうか。

 

11月23日夕刻、泥のような二日酔い。竜王戦をTSで観ながら焼酎をあおる。きのうの別嬪さんのことがまったくおもいだせない。顔も、なにかしらの情報も、ぜんぶ。でもたいていそういうものだ。そういうものだということにしている。

迎え酒はビールに限る、といったのは山口瞳で、それには完全に同意ながら、ぼくはあのひとのことがきらいだ。被虐妄想、振り切れない正気と狂気の自家撞着、そしてなにより小市民を代弁したがるくせパトロナイズへの憧憬を抱きつづけたところ。きらいだ、というためだけに著作は20冊以上読んだ。そもそもこれだと作風や作品の内容ではなくてほぼ本人の人間性に対する批判なのでぼくの動機もたいそう不毛だが、最低それくらいの覚悟をもってしなくては赤の他人を「きらいだ」などと言える資格はない。と、これはあくまで私見、偏見。ただ、山口瞳の随筆は良作が多い。というより、よい作家だ。きらいなだけだ。宜しく候。

 

11月24日未明、寄せては返す頭痛と、相変わらずの胃・十二指腸の反乱。単体ならまだしも、コンボでくるとしんどい。4時に目がさめてから12時ごろまで、冷凍マグロのごとく横になるか、さもなくばトイレの神さまと化す。間断なくどこかしらが痛いというのはきつい。映画を観にゆく予定だったがキャンセル。午後、洋ちゃんがわざわざ伏見からうちまでやってくる。なんだよ、愛かよ。すまない。ありがとう。

ほとんど一日寝てすごす。20時過ぎ、そろそろ小康。スーパーで野菜の煮物を買って食べる。ふたたびねむる。

 

11月25日未明、身体はすっかり元気になった、といいたいところだがまだ嘔吐はつづく。どうせしんどいのだから酒でものむか、と焼酎。これが(たとえ一時的でも)妙手であって、たいへん楽になる。おそらく、肉体的にどうこうというより、精神的なものがまぎれるほうがぼくの場合大きい。昨夜やっていた、山口(恵)女流二段出演のゲーム番組(ニコ生)をTS視聴。高橋名人といえばやっていたなあ冒険島。わたしは清く正しい後期ファミコン世代です。

 

最後に、洋ちゃんがこんなことを書いてくれたので、尻馬にのって募集しておきますね。

それではごきげんよう。

 

 

 

 

あたらしい世界じゃなくても(3)

11月19日、「聖の青春」を観た。

個人的な好みは措くとして、あだやおろそかにできない映画、という感想である。

そもそもキクチは映画通ではないし(DVDやネット上で年間30~40本程度、といったところ)特段自分のなかに体系立った”映画観”のような評価軸をももたない。すきか嫌いか、というそれのみだから。

それゆえか、また気持ち悪い将棋ファンだからか、「田中章道」「田村壮介」「遠藤正和」といった役名の小ネタ(?)や、故・河口先生や故・真部先生の風貌に似た棋士(台詞もとくにない、端役的な扱いではある)をみつけてはキャッキャしていた。キャッキャってなんだ。32歳なめたらいかんぜよ。名人になったら土佐の中村に引っ込むから教えを乞いにきなさい。あ、ちがった、それ森違いでケイジ先生や。村山先生は名人になって早く引退したい、だった。ぼくは早くお星さまになりたい。死ぬとかうんぬんかんぬんではなくて。比喩として。叙情として。あるいは韜晦として。なるべくきれいで、弱々しい光のやつ。

 

京阪電車でゆっくり家に帰った。

大学生がたくさんいて、彼らの醸し出す、なまぐささ、みたいなものはきらいじゃない、とおもった。

それから夕方にかけて、酒をたくさんのんだ。気持ちよく酔っぱらって、ねむった。

 

翌日、夜中につらい話があった。ぼくはばかなので突然「風俗にいこう」とおもう。脈絡はない。脈絡などあってはいけない、とおもったので。午前5時前に木屋町について、小一時間を焼鳥屋のカウンターで捻りつぶした。ビールの味がしない。そもそもプレミアムモルツはきらいだ。ガラケーで日の出を調べてみたら6時32分だった。6時から開くじゃん、と、ちょっとばかし笑った。

 

敵娼は22歳というからきっともうすこし上かと邪推したら、どうもほんとうにそのようだった。ひょんなことで、ミュージシャンだと知る。共通の知人の話でなぜか盛り上がってしまう。午前6時の風俗店で、お互い裸で、関西の音楽業界の未来を話し合っているのがふしぎ。ふいに「ユキちゃん」という曲をおもいだす。ん?エミちゃんだったか?ぼくの記憶中枢はまったく働いてくれない。

帰宅。なんだかやりきれない気持ちになって、またしても酒をのむ。詩を一編。焼きそばを食べてぜんぶ吐く。歯磨きをする。そしてまた酒をのむ。なぜかタクシーを呼んでまた木屋町へ。二度目の風俗。今度の子は褒め上手だった。幸あれかし、とおもいつつ、もう自分で自分のことがよくわからない。自分という人間を理解できないことはそこそこあるけれど、自分の行動を言語化できないなんてそうとうひさしぶりだ。

 

そして気がついたらまた「聖の青春」を観ていた。

12時40分の回。

今度は、中盤、三段リーグ最終節の描写になるまえに、耐えきれなくなって席を立ってしまった。

 

いつも死んでしまいたいとおもっているし、狂いたいとおもっているのに、生きているし、すくなくとも狂っているとまでは判じえないし、なんとなく、手の届く安心ばかり買っているような気がしている。

 

これを書いているいまも、風俗によくある種類のボディソープのにおいがする。

ぼくはばかで、詩人で、アル中で、32歳だ。

それ以外のなにかしらはあまり必要としていない。

one of them、みたいな。

孤独だけがやけにやさしく響いてきやがるので、もうちょっとくらい、つきあって齢をとってやりたいとおもう。

 

 

 

きれいですね

狂ってしまいたいとおもううちは

まだ狂っていないから

大丈夫だ

ふざけた踊りおどりつづけて

なにが大丈夫だ?

きみの膚は見えてる

シャワー浴びすぎてカサカサだからこう言うんだ

「きれいですね」って。

 

誰かが思い出を棄てた

ひとつ、ふたつ、みっつって数えて

ぼくはそれを拾った

整わない未来のために

ぼくは、それを拾った

 

行く末も越し方も今なおここで澱む空気も

破顔一笑、そんなことじゃきみだってつまらないでしょう

木屋町を出て四条を東へ東へたどった

鴨川を越えて

あの子は言った。「きれいですね」って。

ぼくはそれに値しない

 

どうでもいいようなひとと

心底愛したひとと

誰の隣でも夜は平等に過ぎてゆく

「なんか、へんなかんじだ」

ぼくはおもうよ

生きてるやつが「死」について語るとき

意味はなくともほんのすこしだけ

そこからこぼれるものも

またひとつの、ふたつ、みっつの

「生」じゃないかと

 

 

シャワー浴びすぎたんだろ

知らない男の咥えすぎて疲れたんだろ

きみがねむりにつくころは

どこか遠くにいる

けれど

整わない未来のために

ぼくは、それを、拾った

 

 

  

あたらしい世界じゃなくても(2)

午前9時過ぎの三条は、土曜日ではあったが、雨上がりのしずけさが散りばめられていた。あちらこちらに目には見えない水泡のようなものが漂っていて、ときどきそれがパチンとはじけるかんじ。

 

バイト先のシネコンへゆく。

かつて7台あったチケットカウンターはすでに無く、かわりに立派な券売機(自動発券機)が鎮座していた。わずかに人間の担当するボックスが旧ポディアムのあたりに3台あり、そのうち1台はclosed、残った2台にも客が並ぶことはなく、社員が(おそらく)新しいバイトを指導するために開けている、という雰囲気だった。

それでもどうも機械でチケットを買う気持ちになれず、心中スマヌスマヌとつぶやきながら、そちらへ向かう。「一般です」「10時からの聖の青春を」「J8で」。シアター3だからJではすこし前すぎるかなあ、ともおもったが、なるべく周囲にひとの少ないほうがいいので、数秒間の脳内自分会議のすえ、J8、きみに決めた!なお、通路側なのはキクチがパニック障害の前科をもつためで、閉鎖空間(劇場や新幹線など)では定跡手順である。ふふふ。なんかかわいい。余談ですが10代のころは「~障害とか~症とかそういうのかっけえ(意訳)」と、あまりにもばかな憧れ(作品やパフォーマンスのかっこいい詩人にそういうひとが多かったんですね)を抱いていたものの、いざ自分がそうなるとぜんぜん笑えない。けれど笑わないほうがもっときつい。なので笑う。という三段活用で、ほんと、くだらないなりに生きてます。

 

無事チケットを購入し、開場までまだ30分ほどあったので、となりのドトールに入る。小さいコーヒー。砂糖なし、フレッシュ。越智信義さん編の随筆集を再読。

 

封切初日ということもあってか、「聖の青春」が上映されるシアター3は約360席の、MOVIX京都ではもっとも大きな部類に入る劇場だ。数日後からは中規模のところに変わるのだが、はっきりいって不安である。もちろん当日の上映スケジュール的な兼ね合い(他作品との相対的な動員予想など)はあるとして、いやいやいくらなんでも、これは大きすぎやしないか。それは悪いほうに的中した。映画の成功を願う将棋ファンとして、事実とはいえ言うべきではないのかもしれないが、一般人のお通夜でももうちょっと大勢くるだろう、というくらいの入りである。

だがしかし、一面においてそれはほんとうにどうでもいい話。上映がはじまるまでの約20分(予告ふくむ)、おじいちゃんおばあちゃん、ないし、おじちゃんおばちゃんたちの小声での会話に耳をすませていると、これがなかなかにディープなのだ。故・村山先生のエピソードを語るひと、「先日の~戦はこれこれこうだった」などと棋戦の解説をはじめるひと、将棋界の未来について熱弁をふるうひと。ああ、(おそらく家を出るころは)雨の、土曜の朝にここへこの映画を観にやってくるひとというのはたいがいが将棋への熱をもっているのだな、と、なんだかうれしくなってしまう。

 

ぼくは、だまってJ8席にすわっていた。1階からコンセ(売店)のにおいが上がってくる。あの、ハチミツと砂糖とトウモロコシがないまぜになったような甘ったるい「映画館のにおい」。映画館で映画を観るなんて、もう5年以上ぶりだ。

これまで自分が何万枚のチケットを発券したかわからないけれど、いざ客としてこうやって腰をおろすと、ぜんぜんちがった風景がみえてくる。聞こえてくる。香ってくる。

きのうがいかにうつくしくても、きょうがどれほど予測不能でも、「ここから先」はなにがなんだっていいじゃないか。それがたとえ、あたらしい世界じゃなくても。

 

目をとじる。

 

目をあける。

 

「聖の青春」が、はじまる。

 

 

 

あたらしい世界じゃなくても

11月18日、早朝から家で焼酎をのみながらごろごろしていると、夕方ごろ旧友Tから電話。「のもうぜ」ということになる。

Tは数奇な運命をたどったひとで、福井にうまれ、舞鶴の高校にかよい(そのころなぜか京都のぼくと知り合った)、山口の大学へいき、途中休学して東京へ出て、大学卒業後そのまま山口で就職し、気がついたら今春京都へ引っ越してきた。解せぬ。ぼくにとってはもはや空気のような存在なのだが、なんというか、「イラッとする空気」である。たぶん先方も似たようなふうにおもっているだろう。ふたりとも、表現するもの同士だからそれでいい。

 

彼が遊んでいるというボードゲームカフェへゆく。正直なところ、ぼくはあまり気が進まない。タクシーを待っているあいだに調べるかぎり、どうやら禁煙のようだったから。「たばこも吸わずにゲームができるか!」キクチはそう言ったとか言わないとか。ともあれ、アルコールはあったため、ビデオ判定の結果セーフ。白ワイン、500円くらいだったとおもうが、大ぶりのグラスになみなみ。ここで機嫌いくぶんか直る。

なんとかというドイツの資産増やしゲームのようなものに興じる。T、そしてカフェの常連らしきひとと3人。当たり前のようにカモと化す。その後、ガイスター。3局つづけて負け、最終4局目で幸運にも一番返す。これはおもしろいな、とおもった。われながら現金なものだ。

 

そこからDD。生ビールがうまい。途中、Nから「おちょりさん、今日は飲みにでてはりますか?もしお近くでしたら(後略)」という「ここにいるよ」メール着。かわいいかわいいN(ここらへん、入江相政日記をイメージしてください)のためCAPOに移動。しばらくのんで、またDDへもどる。すでに意識はもうろうとしている。しかし、さまでそう見えないのと、自覚がないのとが、わが酒癖のよろしくなさよ。とはいえまだまだのめることに変わりはない。ほうこうする夜はつづく。

何時ごろだったかすでにおぼえていないが、そこそこいい時間、Tの恋人来。聞けば近々結婚するという。披露宴だか二次会だかでなにかやれといわれたので、それならTと一緒に恥ずかしい過去作でもやろう、と提案する。われわれのつきあいはすでにお互いの人生(同い年である)の半分をかぞえる。いろんな意味で戦友であり、いろんな意味で兄弟であり、いろんな意味で敵である。どことなくかびくさい、青春のにおいを(すくなくともぼくは)いまだ引きずっている。草に埋もれてねむったときのようなにおい。

 

気がついたら、Tたちは帰っていた。ぼくはYと魁力屋にラーメンを食べにいった、気がする。ということはまだ2時より前だ。たいして深くもない時間帯ではあるけれど、個人的には24時間以上のんでいた計算になる。

そのあと目覚めると、漫画喫茶で、朝の6時半だった。腹は減っていなかったけれど、なか卯に鴨そば(うどん)が出たので、ありとあらゆる肉のなかで鴨を最上とするキクチ的にはどうしても食べる一手しか見えず、足を踏み入れた。うまかった。しかし、あんのじょう、帰宅してすぐ吐いた。

 

二日酔いなのだが、正確には二日酔いになりきるまえの二日酔い(このニュアンス、伝わるだろうか)だったので、約2時間後、ぼくはまた三条へとんぼ返りする。

 

「聖の青春」を観るために。

 

 

 

おぼれるものは

おぼれるものは藁をもつかむというが

ほんとうは

笑いをつかもうとしているのだ

最後にきみの

しらけきった顔が見たい

 

喜劇はいつも無言のうちに幕を上げる

棺オケをワインで満たし

ひびわれたパンと接吻をかわす

日曜日くらいは

休んでみたっていいだろう

それから

拍手ひとつ聞こえない淵に

深沈としずんでゆく

 

 

一夜

おぼれるための準備体操をしながら

ぼくは妄想する

みずからの表札を取り外すまえに

そこへこびりついた浮世の垢や汚れを

聖者みたいな顔して

ぬぐい去ってやろうと