キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

トロンプルイユ

母国語の外へ

逃げ出したくなるときがある

意味の染みこんだ服を脱ぎ捨てて

なんとなく笑っていたい

それはカン違いのようであればあるほどいい

 

ぼくの思想や肉体は貧弱でも

それが白日のもとへさらされているのを

想像すると、ことばがぼくを超えてゆくのを感じる

きみは嘘つきじゃないが

嘘に近い何かでできている

 

きっとほんのちょっとした目の錯覚みたいなものなんだ

夏の暗がりに立ち尽くして愛の断末魔を聞いた

形而上的セルフネグレクト、待てど暮らせど 

痛みは痛みのまま、文脈を突っ切って

ぼくの知らない場所へ帰ろうとする

 

アルファベットのなかにいないひとと

五十音で解き明かせない謎がねむりにつく

ベッドのうえは黙りこくった血だまりでいっぱい

意味の色じゃない赤い赤い「わからない」

笑えない

 

そちらから見ると

ぼくはどんな顔をしていましたか

 

母国語の外へ

逃げ出したくなるときがある

けれど

痛みだけは無言で

その横を通りすぎて

ぼくの知らない場所へ帰ってゆく

ぼくもまた何かしらの嘘でできている

 

 

  

遠い湖

右手と左手の親指

爪の長さがずいぶんちがった

パドルを操るのにどちらがいいか知らない

 

 触感!やわらかく腐ってゆく夏の水道水

 

木は黙っていてもあたたかいな

遠いあの湖へ

 

新宿、ほの暗い遊歩道

酔っぱらった大学生や浮浪者をよけて泳いだ

ふしぎだね

7年もすれちがっていたのに

あなたの手は

黙っていても

あたたかいな

ふしぎだね

もうあなたに会えない、なんて

いっぺんたりともおもわないぼくのこと

 

小さな舟で中央線を追い越してゆく

窓辺に飾った花をちぎりながら

かぞえて、

「忘れたから思い出せるんだよ」

 

ここからこの詩はぼくの口もとを離れる

 

 光のようにすすめ

 たとえ輝いていなくとも

 光のようにすすめ

 嘘や欺瞞じゃないそれはきみの声だ

 光のようにすすめ

 立ち止まったときも

 光のような顔してすすめ

 すすめ

 

夢からさめれば

ぼくは転覆してたか、そうか

ぶかっこうな朝

何年経っても平等に遠い湖

爪はどこかしら欠けてしまったよ

 

あなたにあこがれて

吸いはじめたメンソールに火を点けてみる

甘くはないがしょっぱくもないな 

ひとくちだけでいいから

水がほしくなった

 

きょうはすこし

あたたかいな

 

 

  

  

踊り場から愛をこめて

ぐるぐるぐるぐるまわった

赤錆びて骨ばったらせん階段を

ぐるぐるぐると上がった

上がってるつもりでたまに迷った

 

この人生にはいくつか踊り場があって

いま、そこでたばこふかしてるところ

遠くなったあのこの街は薄曇り

目をほそめた自分の顔はきらいだ

 

ぐるぐるぐるぐるまわって

仕事はクビになった きみのことも忘れた

四捨五入したら30歳ですね、って

バイト先の女の子に笑われた

 

車もテレビもi-phoneも持ってないから

いつも頭のなかで音楽を鳴らしてる

クリープハイプがすごくいいアルバムを出した

きみが昔いいねって言ったバンドだ

 

年下の大学生にですます調で怒られて

朝からすごくうんざりした ああもう、死にたくなった

くたびれたエプロンを脱いで裏口から逃げ出してゆく

45分の休憩時間よ永遠なれ

 

12時を過ぎたオフィス街からひとが吐き出される

男、男、女、男、若いのも年寄りも

巣をつぶされた蟻みたいにあわててどこゆくの

女、男、女、女、かわいいのもぶさいくも

ぼくは踊り場から見下ろすけど話の筋書きはわからない

彼らは逃げ出してゆくの、それとも立ち向かいにゆくの

遠い場所で起こってることは事件でもなんでもいつもそうだ

誰かが解説してやらなきゃわからないな

 

さよならを上手に言える大人になりたいとおもってる

親、友達、恋人、同僚、たくさんの好きだったひと

ぼくは生きててもしょうがないけど死んだってしょうがないや

夢、希望、収入、安定、かわいいねきみたち

いまは踊り場からみえる景色が絶対的に間違ってるなんておもえない

彼らは逃げ出してゆくよ、不安にさえ気づかずに

遠い遠い国で自爆テロが起こりました、集団自殺がありました、政治家が銃弾に倒れました、だれかとだれかが

キスをしました

 

ぼくももうすぐここを出なくちゃいけない

ビル風と砂埃と鈍い日射しのすぐ下へ

でもそのまえにもう一本だけたばこを吸わせてくれ

話は終わってないよ、でもはじまってもいなかったよ

 

踊り場から愛をこめて

踊り場から愛をこめて

 

 

 

 

 

※旧作ですが、かつて掲載していたブログを削除してしまったため、ここに留め置きます。いまそれがぼくにとって必要な気がしたので。

 

 

 

午前3時の吉本隆明をぼくは忘れない

 

 

午前3時に凍った血が

ことばの触手から逃れようとして

室外機のかげで汗をかいている

ぼくもまたひとつの原像

群衆の波にうもれているうち

体温はすこし

上がったみたいだ

 

敗北の構造は

ゆがんだ背骨に似ている

祈りはそこをすべりおちて

ちいさく光ったあと

地べたへ吸い込まれてゆく

 

片結びにしてしまって

ほどけない靴ひもとロジック

いつのまにか身体は冷えきっていた

夜明けが近づいても

この場所は真っ暗なまま

午前3時の吉本隆明をぼくは忘れない

 

 

 

ぼくが「読む将」になったわけ

将棋ファン、という存在の下部カテゴリが数多登場しだしたのはここ数年の話だとおもう。いわく「指す将」「観る将」「撮る将」「描く将」「ネタ将」など、その分類は多岐にわたり、それ自体はSNS(および個人メディア)時代においてほかの分野と足並みをそろえている、きわめて自然な流れではあるんだろう。ようするにそれぞれの「ちいさな物語」を生きてゆくことがぼくやあなたの人生の骨子になってきたんだ。

適切なたとえではないかもしれないが、阪神大震災はまだ「みんなの」ものだった。そして東日本大震災は「みんなの」ものにはならなかった。なりえなかった。「それぞれ」を足し算した「みんな」と、「みんな」の構成員たる「それぞれ」、は根本的にちがう。

本筋からそれるのでこの話はこのあたりで措く。

 

さて。

「なんとか将」に積極的に自分をあてはめるつもりはないが、その伝でいえば「読む将」(そんなひとはいるのかわからない)になるだろう。ぼくは棋書(ここでは戦法や戦型についての本をさします)はからっきしだが、棋界史や棋士の随筆、観戦記といった、いわば「将棋読み物」を好んで読んでいる。だいたいひと月に20冊程度、古本でまとめて買う(絶版本が多いから)。

ただ、そこにおいて蒐集癖というものはあくまで従である。あえて順番をつけるなら、将棋(界)への意味不明な愛情、知識欲、ペダンチシズム、そのつぎくらいになるかしら。

 

もともと、古今東西とわず歴史がすきだったのと、活字中毒の気があるので、「将棋読み物」にふれるのはさして特別なことではなかった。しかし、その最初がよかった。

升田幸三先生について書かれたある本を読んだのだけれど、そこでは有名な「ゴミ・ハエ問答」についての項があり、「ゴミにたかるハエみたいなもんだ」で文章がおわっていた。当然、これだけみると文脈としては升田先生が木村名人をうまく言い負かしたエピソードなのだな、と受け取れる。ぼくもそのときは「へえ、なかなか落語みたいなオチでかっこいいな」とおもった記憶がある。

ところが数ヶ月後に別の本を購うと、そこには「ゴミにたかるハエみたいなもんだ」のあとに「まあ、君も早く名人戦に出てくることだな」とある。まったくもって話がちがうではないか。実際、その現場の雰囲気はわからないまでも、これは木村名人が最後に(まだ名人挑戦経験のない升田先生に)痛烈な捨て台詞をぶつけたということで、まあ指し分け、すくなくとも「升田勝ち」の流れではない。

 

こういうことがあるから本を読むということはおもしろい。行為というより、むしろ営みとでも言いたいほどだ。

歴史好きゆえに、いやというほど類似のケース(砕いていえば「みんな言ってることチガウヨー」とか「この著者はこの発言とか挿話を意地でも書かないよね」とか)を体験し、いわば手筋は承知しているのだが、その一事が「あ、将棋も歴史だ、歴史として読める」という認識につながった。

 

そこからぼくの「将棋読み物」蒐集がはじまる。

たとえば河口先生の「対局日誌」シリーズや多くの観戦記を読み倒すことは、いうなれば日本の中世~近代史を勉強するならまず司馬遼太郎を読みましょう、というようなことだ(とおもっている)。そもそも分量が膨大だし、時代も多岐にわたるから(将棋の場合は戦後~平成十年代ではあるが)なんとなく「知った」気になるんだ。けれどそこで止まってしまうと「河口史観」「司馬史観」というフィルターを通してでしか事物を見ることができなくなる。おなじことは菅谷北斗星、倉島竹次郎、加藤三象子(治郎先生)、山本陣太鼓(武雄先生)、天狗太郎各氏をはじめとした、いわば観戦記者のレジェンドのもの「ばかり」読むのにもいえる。現役なら出版点数のきわだって多い先崎先生などもそう。

 

誰が正解か、そうでないか、ではなく。誰がどんな立場で、どんな性格の書き手か。好悪の情のはげしさや向かう先は。執筆当時の棋界事情、また利害関係は。ぼやかさざるをえないことは。そういったタペストリーの縦糸横糸や、人間同士のあいだにある陰翳まで(もちろん、あくまで「作品」として上梓されたものだから、いまtwitterをみて評価するようにはできない)それなりに読み込んで、いったん分解して、自分のなかで地図を再構築しないと、フィルターは取り除けない。逆にいえば、自分のなかに「自分のフィルターをつくる」作業であるともいえるかもしれない。つまり、誰々さんが誰について書くときはすこし悪意をさっぴいて読む必要がある、とか、このタイミングでこういう内容にふれるのは相当頭にきていたんだろうな、とか。

それはあるいは、当方の勘違いかもしれない。邪推やこじつけかもしれない。

ただし、ひとたび書かれた文章は、書籍のうえで甦ることはないし、たったひとりの証人の発言で事実や真実を決めつけてしまえるほど、ぼくは乱暴になれない。自分にも他人にも都合のよいような「情報を集めてきたんで、それをそのまま知識として開示しますね」というスタンスとは、気が合わないんだなあ…どうしても。

 

なんだか脱線ばかりしたけれど、なぜキクチがいわば「読む将棋ファン」なのか、そして「将棋読み物」を読みつづけるわけは、という、ひとつのちいさな物語でした。

 

 

 

恋をしよう

ぼくらは解散しても
ヤフーニュースには載らないから
ちょうどいいだろ

 

きみの目線が斜めに上がるまえに
恋ができる

 

浮かんで沈んで
ふくらんだ自尊心を脅かすような強いことば、ことばがほしい
飛び込んだのはぼくで、けれど流されてるのもぼくだ

 

どうか
嫌いになっておくれね
見えなくなったらおしまいだから

 

きみの目線が斜めに上がるまえに
恋をしよう

 

 

  

血と水

血なんて単純な道を流れてるから

つまらないな

迷いもしないし行き先をうしなったら

帰る場所しかみえないじゃないか

 

うすめたって飲めない話がある

うすめたからこそ飲めなくなったぬるい愛情

最高のパーティの端っこ

取り換えのきく飾り付けみたいな顔で笑ってた

きみをぼくは忘れはしないよ

 

あんなに雨がふったあとの水たまり

なにもなかったように歩くひとがすき

 

歩くひとがすき