キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

ワイドボーダー

「育ちのよさ悪さ」という、たいへんやっかいな概念がある。

そもそもこの「キクチミョンサ的」(2016年9月10日時点での)ブログタイトル下の文章はSUPERCAR「PLANET」をパクッ…パクチーは緑色だからセーフ!西川セーフ!ありがとうウィーラー!みたいなパ…パスティーシュであって、「ぼくが王子ならどうだろう」という歌詞があるのだよ、ということなのですね。いやちょっと待てそれ全然説明になってない。

 

しかしながら王子ってなんだ、王子なら育ちがよいのか、といわれると確信がもてない。とはいえ実際問題として「育ちのよいひと」というのは存在する。ただし、こればっかりは旧家だ上流階級だなんてくくりでは語れない。明治天皇の玄孫だから遠くからでもあふれんばかりの気品がただよってきますなあ、ということはないのだ。なおこれは別にsave your dreamできなかった誰かのことを揶揄しているのではない。わたしも明治天皇の玄孫である。偶然が重なりつづけて道ができてゆく。ファンブルのように。嘘だとおもう諸兄はウィ…ウィーラーありがとう!

 

おっ、なんだか今回のブログは妙にシリアスだぞ。そしてなんかよくわからないけどキクチ銀の匙をくわえて生まれてきた系?と期待した方に申し訳ないが、わたしの匙もハンカチも常に真っ黒である。シェイクスピアいわく「摩耗するくらいなら錆びたほうがまし」だ。汚れてなンぼ、さぃてょ泣くな。そういうこともアルバ。

 

そこで西川である。9打席連続出塁の西川である。

わが父親がかつて「西川が牽制死するのはポケットの右と左、どっちにライターを入れていたかわからなくなっているからだ」というブラックジョークを披歴するほどのキャラで、正直なところ日ハムファン、あるいはそこそこ熱心な野球ファンでなければ伝わらないのも承知なのだが、とにかく「イキってる」感の強い選手である。しかし仕方がない。それはなぜなら西川が和歌山出身であるからだ。

これは皮肉ではないし、和歌山という風土や県民を貶める意図もまるでなく、純粋に文化人類学、もしくは言語学的な話だとおもって聞いていただきたい。

 

和歌山というか紀州方言には「敬語」が発達しなかったという歴史がある。

そこそこ広い面積があり、また海と山とを同時に抱き(つまり単純な内陸国に比べて職種的、生活習慣的な断絶が多い)、中世末期まで統一勢力があらわれなかった。それもいくつかの地方軍閥が割拠していたわけでなく、もうすこし下の、豪族未満・大地主以上くらいの勢力が星の数ほど散らばっていたので、「支配することされること」という観念に薄く、むろん血縁的なつながりも広範囲に及んだわけではないから、上下を基準とした力関係というものが生まれづらい。

逆のパターンとして象徴的なのは京都である。気持ち程度の尊敬語が、そのくせ、動物にも天候にもついてしまう(「かいらし柴(犬)が歩いたはったわあ」「ようけ雨降ってはるなあ」)し、あるいは味噌汁にでも大根にでも「お」をつける(「おみおつけ」「おだい」)などなど。

これすなわち、その街、というか往時の国がおかれた政治的な状況、立ち位置によるものである。もちろん和歌山のひとも敬語を使う。しかしそれはあくまで標準語としての敬語であって、方言由来のものではないし、それをふまえてなお現代を生きる彼らの血に流れているのは「おれ・お前」的な皮膚感覚なのではないか、とおもう。幕末、脱藩するときの土佐藩士のことばみたいだが、あちらは思想としてのもの、こちらは生理なのだ。たぶん。

とはいえ、それをもって和歌山人が無礼だとか、イキってるとか、そう言いたいわけではない。京都人の過剰な保身志向、天秤の均衡をたもちたがる県民性とおなじく、ただ平明な文化としての「ワカヤマ的」なのだ。

なにが言いたかったかというと、西川は生意気にうつるかもしれないけれど、とてもいい打者です。今季、打率リーグ2位だぜ…?

 

しかしここでわたしは気づいた。賢明だからね。

冒頭「育ちじゃねえ、っつってんべや」と言いつつ、最終的になぜか西川への援護は「和歌山出身だから」ということに落ち着いているではないか。

しかしそれでいいのだ。

育ちをにくまずひともにくまず。

 

肉どころかここ数日、高菜漬けしか食べていないけれど、日ハムが勝ってたいそううれしく、メシウマなのでよいのです。

書き残したことは有原、もうネタは中田、おあとが吉川(わかるひとだけわかってください)。

 

さて、カープはどうなるかしら。