キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

浮いたり沈んだり

キクチミョンサ×村島洋一のバンド「浮かむ瀬」はデビュー戦を飾った。

生きたり死んだりする(これは口ぐせ)のにも疲れたなあ、とおもったころで、ちょうど湿度の高い冬の日はそんなチューニングと馴染んでいた。平静の情熱。

 

setlist

1.カデンツ

2.きれいですね

3.静脈

4.海鳴り

 

詩人がじぶんの詩について詩そのもの以外のかたちで語る機会はなるべく少ないほうがいい、とおもっているので、自戦解説は控えるが、箇条書き的に当日のことをつれづれに。

 

前夜から朝。ほとんどねむれなかった。横にはなっていたので、1時間か2時間弱くらいはうつらうつらしたとおもう。酒は日付の変わるまえに止めた。午前4時くらいから、ぼんやりと夜の明けてゆくのを眺めていた。紅茶を4杯のんで、ヨーグルトをたべた。まだ暗いうちにコンビニまで散歩をして牛乳を買う。あんまり寒くはなかった(睡眠不足で火照っているのだとおもいこんでいたが、のちに風邪だと判明)。

 

11時半、ハコ入り。

勝手知ったるライブハウスだが、今回の出演者はお笑いや芝居などの、とくに学生さんが多く、いくばくかのアウェー感も。しかしおそらく彼らにとっても似たようなものだろう。スタッフワークについてはたいへんおもうところがあったのだが、主催者も20代後半ではあるし、おじさんが先輩づらをふかして言っても仕方ないか、とおもって傍観していた。苛々はした。けれど、一面の真理として「全員がそれぞれの信ずるところというか好きなように生きてれば、まあ、すくなくとも特定の誰かにとって致命的な傷にはならない」というのもあるので、みんなで痛みを分け合いましょうね、という気持ちで、過度には苛々しないようにつとめた。将棋の本をたくさん読んだ。ぼくはきょう、ハコの人間でもなければ、スタッフでもないので、自分だけに直接影響のあるような事態さえ起こらないかぎり、緘して黙するのみ(しかし、これがいちばんむずかしい)。最終的に、すこしだけ口を出してしまう。けれど、それはイベントとして必要なたぐいの問題だったので。などと言い訳。

 

12時半、顔合わせから1分押しで開場。

14時半、洋ちゃんとスタジオ。初合わせだったが、よきかなよきかな。当たり前だが、お互いの基礎体力と共通言語の存在というのは大きい。気分よく1時間。

 

16時半、いささかメートルの上がらない状況もあいまって、小雨そぼ降るなか、数軒となりの立ち飲み屋へ。サンタカの東、小さな筋を入ったところにある、「友立ち」という家。店名がそこはかとなく卑猥ですてき。生中とグラスになみなみの焼酎を1杯ずつのんで、マグロユッケ、鶏皮ポン酢、タケノコ刺身。これでひとり900円ちょっと。この時間でも7~8割がた埋まっていたが、さすがにダークダックスのポーズまではいかずにすむ。こんなときはがらにもなく雨に感謝したい気持ちになる。小一時間過ごして、もどった。

 

小島基成がすごいステージをやっていた。

ああもう、このひとはぼくとは表面的には道を別ったけれど、それでもまたどこかでうっかり合流しそうだな、でも単純にかっこいいな。そうおもう。彼が地図に赤ペンでマルをつけながら進むなら、こちらはスマホで検索をかけて次の道筋を知る。基成はテーゼを正面からぶつけられる詩人だ。というか、そういうことしかできない、そんな不器用さにありありと鍛えが入って、まっすぐな道でもきっとさみしくない。ぼくは受けてかわすタイプだ。知識、情報量、経験の絶対値で勝負する、なんでもできる体を醸し出しつつ、実際はそこまで手が広いわけではない。ただし、「器用にみせる」能力だけは異常に発達している。元来、器用なわけじゃないのにね。でもそれはそれでキクチミョンサというひとの魅力だ。

 

この日の「若者のすべて」というイベントは、原則としてハッピーなイベント、というか、「ハッピーにしようぜ」といった雰囲気のイベントだった。そもそもごっちゃ煮ではあるし、語弊があるかもしれないが、お客さん<出演者≦スタッフのための、という印象だ。「スタッフ(関係者)のためのイベント」という思想(そうでもなくて結果的にキクチにはそう見えた、という可能性はあるにせよ)自体は別に悪くもなんともないのだが、いささかそのあたりのさじ加減というか、発信の仕方がおぼこいような気もした。後味は別段悪くなかったので、関わったひとたちがみんなしあわせならよいのだけども。

 

・総計40~50人程度が出演する(スタッフ込み)のに、楽屋が10畳ぶんくらいしかない(フォーラムは現在使えないのだが、スタジオを押さえるとかできなかったものか)

・それを受けて、「荷物は棚や小部屋(があります)に」といったアナウンスができなかったこと(結果、数のかぎられた椅子が荷物置き場になり、出演者の多くは楽屋で座ることもできない)

・主催者が非喫煙者なので会場内禁煙。それはいい。ただ、喫煙場所を階段踊り場につくったことで動線として楽屋(スタッフは常駐しているわけではない)直通、セキュリティ的に「万が一」があったときの対応を考えていたのだろうか

・オールジャンル結構。しかしそのため、はじめてライブハウスに来るひとや、会場の構造を知らないひとが階をまちがえて楽屋に来る事例しばしば(ぼくが目撃しただけで30分ほどで3組いた)。インフォメーションのありかた、出演者への周知のしかた

・雨予報にもかかわらず、また出演の約半分がお笑い、芝居、映像など、通常座って観るものなのに途中まで椅子席が会場になかった(いちばんうしろのバーカウンター除く)。いくらなんでも冬のこの時期、しかも雨で、地べたに直接お客さんを座らせる長丁場のイベントは観る側からすれば厳しい(お目当てが終われば帰ってしまいかねない)

・スタッフ間の連携のとれていなさ。ブッキングおよび連絡の窓口としては「音楽担当」「展示担当」などでいいとおもうが、当日、現場レベルでの指揮系統、責任の所在がはっきりしていない。当然ながら出演者は「どの(イベント)スタッフに言えばいいのか」「どの(ハコ付き)スタッフに言えばいいのか」などでこんがらがることになる

 

みたいなことを、個人的には考えた。

多少は運営側に直接言ったものの、こうしてあらためて文章というかたちで残すのは、覚書という側面もあるけれど、ちょびっとだけ、「あれ、このイベントって、スタッフが主役で、お客さんや出演者はそのあとなのかしら」と(雰囲気ではあるけれど)感じたこともある。もちろん「出演者やお客がスタッフより優先されるべきだ」なんてことじゃない、バランスの問題。スタッフをステージに上げてねぎらうこと、結構。ただ、もしもそれによって学園祭感というか、よくない意味でのシロウト感が強調されてしまったならばきっと主催も本意ではないだろう。お金をとって、そこそこのメンツも呼んでいるなかではあるが、もちろんはなっから「いや、これはこういう性質のイベントなんです」とエクスキューズがあればみんな納得して参加、出演するだろうから、よけいに。

 

いくらこころを無にしてステージのことだけ考えようとおもっても、こういうところに気がいっちゃうあたり、自分もダサいなあ、とおもうんだけど、でも、もうこれは病気だ。病気といえば許されると多寡をくくっているわけでなし、されど、まだまだ煩悩は消えない。「そのケーキ、イチゴのっけたほうが絶対おいしいやん」みたいな日々を小言幸兵衛のように生きているのでした。

 

とっぴんぱらりのぷう。

 

 

 

かなしい夢なら見ずにすむだろう

コンビニ店員の薄ら笑いに慣れた

論外のメソッドは見ないでそっとレシートと一緒に捨てればいい

暴虐には暴虐を、揶揄には揶揄を

なまぬるい独創性を描いた

それでも人はそれなりに集まるもんだ

 

大好きな曲を再生する、頭のなか、歩く

はにかんだって、かじかんだ手

わたしの命はあと5分間だけ

ドアを開ける

その重さは問題じゃない

 

最初きらいだったきみのハンドクリームのにおいが

いつのまにか気にならなくなってた

 

そういうふうに日々をめくっていける幸せ

けれど鏡の前に立てばまだ薄ら笑いのぼくが見える

消えるなよ、血が涸れても、脳味噌だけはこのスピードで

まわれ

 

陳列棚には馴染みのない商品がずいぶんと増えた

あたらしい名前あたらしいかたち、なんにもうれしくない再会

会いたいかと問われれば

会いたくはない

でもお互いそれとわかったうえですれ違いたい

 

暴虐には暴虐を

揶揄には揶揄を、

 

最初きらいだったきみのハンドクリームのにおいが

いつのまにかすきになってた

あれは

冬のおわりだった

 

 

  

帰り道のあて

酩酊していつもさよならしてる

律儀すぎる頻度で手を振る

じぶんが今、ここにいないことが不安だ

 

日が落ちるころから

ちょっとおかしくなるのはいつものこと

 

ぼくの棲むマンションにだんだんひとが帰ってくる

ヒールの音高く、くたびれた歩調

ちぐはぐな五線譜 抱きしめてやりたいなあ

夜のうえから

朝が降りてくるわけでなくとも

ついつい見上げてしまうのはなんで

すれ違うときのつくり笑いくらいでちょうどいいか

 

どこへもゆかなければ

帰り道の心配はしなくていい

どこへもゆかないから

もう帰り道のことは忘れさせて

ほしいだけさ

 

酩酊していつでもさよならできる

おだやかな温度できみをおもいだせる

黙って座って待っていればいい

ぼくを殺しそこねた11月が行って

12月が首を絞めにやってくるだけのこと

 

 

  

お仕事お仕事

どうでもよいことをどうでもよいままに書こうとするのは気恥ずかしいことだ。ついついお化粧をほどこしてやりたくなり、いわでもの修飾やとってつけたようなエピソードで厚く塗ってしまう。何もない日であれば何もない日でよいのだ。何もない日を何もない日としてきっちり書き上げるのが、本来的な物書きの腕なのだから。

 

と、「おまえ昭和かぶれかよ」みたいな冒頭でしたが、ぼくの腕はせいぜい酒を咽喉へ流しこんだり、たばこに火をつけるくらいの働きで満足しているようなので、それはそれで幸福なことである。

 

最近、ひさびさに風俗の女の子としゃべるようになって懐かしくおもったのが、彼女たちは(比較的健全な風俗も、そうでない風俗でも)今昔問わず、なぜふたことめには客の職業を知りたがるのだろうか、というその一種独特の生態だ。

おとといくらい、朝の定食屋で自分なりにぼんやり考えていたら、いちおうの答えらしきものにたどりついた。一、単純に話の起点もしくは接ぎ穂として。わかりやすい。とてもわかりやすい。一、その客を見覚えるための認識の紐付けである。これまたわかりやすい。出身地や年齢なんか聞いたって、よっぽど同郷、同年でもないかぎり次回には忘れちゃうだろうし、その点職業ならまぎれがない。

誰だってそうだろうけれど「~さん」だけではなかなか覚えられないものだ。「~の~さん」は、普通、「~の友だちの~さん」とか「~のイトコの~さん」「~の後輩の~さん」のように関係性をメインに記憶することが多いかとおもうが、ふたりっきりの短距離走ではそうもいかない。なんだか妙に納得した。かくてぼくは後顧の憂いなく運ばれてきたミックスグリル定食を食べた。でもやっぱり味噌汁とサラダは食べきれなかった。

余談ながら、定番の「お仕事なにしてるんですか」「なんだとおもう?」というやりとりを経て「詩人」と一発で当ててきた猛者がいたことをご報告しておく。どう考えても「詩人」はノーヒント、ピンポイントで出てこないだろう。なんだ、きみは知り合いか。それとも、むしろきみも詩人なのか。

 

どうでもよいことをどうでもよいままに書いてしまった。

けれど、きょうはどうでもよいままに擱筆しようとおもう。

いいじゃん、「入江相政日記」だって、日常の中身はちがえど、テンション的にはこんなかんじだ。たぶん。

 

 

 

バウムクーヘン

ねむりが浅いのでいろんな夢をみる。

「鳥は飛べる形/空を飛べる形/僕らは空を飛べない形/ダラダラ歩く形」と歌うハイロウズのうしろでケーブルを八の字巻きしていたり、みながゾンビ化した街を逃げ惑いながらついに観念し、どうせならゾンビである元恋人に殺されようと彼女の前に身を投げ出したら無表情にスルーされたり、知らない田舎の旧家で遺産相続の話をしていたり……まったくもってとりとめがない。ああ、そういえば今朝は歯が10本くらい抜けた。夢占いを信じられる体質なら、ちょっとよろこぶところだ。

 

ドーナツの穴は欠落か喪失か、みたいなことを高校時代よく考えていた。ハイデガーの悪しき影響、というより、ただ単純にいきがっていただけである。無い、というのと、無がある、はちがうよねーみたいな脳内ひとり二万字インタビュー、イン、放課後のマクドハッピーセットのハッピーとはなんぞ、で盛り上がれる友人をもたなかったことは逆にしあわせだった。というかお前、せめてミスド行けよ。

 

甘いものはすきじゃなかった。コンドームに穴が開く確率ってどれくらいなんだろうって本気で心配していた。女の子からの返信が3分以内じゃないと苛立つくせ、それに10分は時間を置いてから返すのがクールだとおもっていた。ハタチそこそこでアメリカツアーをすると信じ込んでいた。昼休みに日本酒の四合瓶をのんで五、六限はずっと寝ていた。マルボロライトの味がすきだった。

 

高校一年生の終業式のあと、ひそかに恋焦がれていたHさんを呼び出して告白をした。あっさりふられた。クラスの中心にも周縁にもいない、過度に目立たないかわり「その他大勢」でもない、だれからも「心根のすずやかなひと」とおもわれるようなひとだった。どうも、ぼくは、こういうところに弱い。

 

日常的に酒をのむようになった。マイヤーズ。オルメカ。強ければなんでもよかった。木屋町ですごす夜がふえる。ちょうど家を出たこともあって、めちゃくちゃだ。家賃15000円の、うそみたいなボロいアパートで、バイト、酒、バイト、酒、以下略。部屋にあったのは窓だけだった。あのときがいちばん狂っていたとおもう。額面どおりの意味ではなくて、狂おうとしなくてもそこそこ自然に狂っていた、ということだ。

 

気がついたら大学に進んだ先輩とつきあっていた。とある商店街の美人姉妹の姉のほう。

ああ、なんかよくわからんけど、このまま落ち着けるんだろうな、と、おもった。お母さんにのみに連れていってもらったり、おうちでおばあちゃんのごはんを食べたりした。着々としあわせらしきものが、予測できる未来が近づいてきているように感じられ、そこでぼくはトチ狂う。若いからどうこう、とか、そういう問題以上に、安住の地が目に見えてきたことにものすごい拒絶反応を起こしてしまったのだった。

 

年輪を重ねたところで、その悪癖はいまだ治っていない。

仕事でもそうだ。ある程度評価されて役職をもらったりすると突然ぜんぶ捨ててしまいたくなる。偽悪的か、露悪的か、ねじまがった自己愛が自分の首を締め上げる。「おまえはもう充分しあわせを甘受しただろう?」って。

あからさまに他人を傷つけ、自分の築いてきた信頼をも失い、しかしそれをよしとする、完全にやり方がおかしい。笑えない程度にはおかしい。

けれど、そうじゃなきゃいけなかったんだ、と、そのときには思考(というよりは感情か)が頑迷であるのも事実だ。

 

ドーナツの穴は欠落か喪失か。

 

はじめからそこに無があったのか。

それとも、無いのか。

 

 

 

フライングマン

息がすきとおるような夜に浮かんだ

からだのバランスがおかしい

あのゲームの、あのダンジョンで、あいつに毒された十字キー

高く売りつけてしまいたい情けない鬱屈、ひのひかり

名前をつけてくれたのに

もう呼ばれないと知るさみしさよ

心細くていいから

この冬とダンスを

せめてものダ、ダ、ダンスを

 

きみたちを別に侮っているわけじゃない

けれどおなじ目線じゃことばが伝えられない

嘘つきだよ、それなりに世にはばかる

とはいえ

やさしさだけなら傷はつかなくとも話の落ちは変わる

 

一行をずっと探していたんだ

どこかでまぎれてしまったまま

夕方の知らない帰り道にとてもよく似合うかんじの

愚かさや怠惰、ことばじゃないが

大人じゃないな、そのままじゃないか

 

いつでもそんなふうに消えてゆくから

心配しないでよ、安心してよ

ぼくはずっとぼくのままだから

血と肉

おおいなるかなしみ

善なるこころ

うちなるちから

えいえんのしもべ

 

息がすきとおる

夜は誰かのことを見てる

心細いダンスを

心細いだけのダンスを

ドラムロールが鳴り響く

どれだけ仲間を集めたところで

祈りなんてコマンドはいつまでたっても出てきやしないんだ

 

 

 

ドラマ

こころをきれいに保つのはとてもむつかしいことだ。

ときどき、おがくずをまぶしてやったり、枯葉でそっと隠してやったりしないといけない。なんとなれば切りつけてわざと血を流す。泥を塗りたくる。何度となく埋めて、いくたびもその墓をあばいて、まだ新鮮なやつを引っ張り出してくる。そうでもしないと、こころはほんとうに死んでしまう。すくなくともぼくの場合は。

 

こころそのものが本来きれいなものか、あるいはきれいであるべきか、それはわからない。そもそも、きれいってなんだ。ピカピカ光っていればいいのか。けがれなき色艶をのっけているものなのか。ふれたとたんに消えてしまいそうな、はかなさと美しさをこねくりまわしてなお言語化できない透明のようであるべきか。

さて、どうだろね。ぼくの守護天使はこの話題にはあまり興味がないらしい。したがって、ぼくもそれ以上筆を進めることができない。

 

もうずいぶん前におもいついた自分のキャッチフレーズで「飲む、打つ、かわいい」というのがある。

ひとつめはそのとおり。みっつめについては、ただの地口落ちのニュアンスだ。かわいいかどうかの判定は読者諸賢ならびに後世の諸君にお任せする。

ところでふたつめ。ぼくは将棋は指せても、囲碁は打てない。クスリなんてものも打ったことがない。博打?せいぜい、むかし競馬をすこしかじっただけ。パチスロは1回で飽きた。

 

それならいったい、なにを打っているのだろう。

 

牽強付会のそしりは免れまいが、どうやらぼくはずっとビートニクにあこがれているようだ。命名の由来に諸説あるうちの一、すなわち「beated」=「打ちのめされた(世代)」。へんなひとたちだった。移民、セクシャル・マイノリティ、アルコール依存症、薬物中毒などといった個人に帰結する要素を別にしても、グレイテスト・アメリカのなかで呼吸がしづらくなった中流階級以上の若者たちの多くが詩人になった。

 

ぼくはきっと、打ちのめされたくって、生きているのだとおもう。

いま、日本において、社会の閉塞感はもはや大きな物語になりえない。加えてドラスティックすぎる言い方かもしれないが、大災害や大事件よりか、まだあのころ、「9.11」のほうが(ほぼ)部外者であるはずのぼくらにとってはまだしも共有しうるストーリーだった。なぜか。個人メディアの発達、一億総発信者時代。ひとりひとりのたどっている小さな物語の、もしくはその集合体の先にだけ(あるとすれば)ドラマが。

 

さあ、そんな2016年に、幸か不幸か表現することを選んだぼくは、どう打ちのめされようか。

きっとそういうことをずっと考えているのだとおもう。

フェアなやり方でないのはわかっている。

けっして美しくもなければ、はかなくもない。ただただ露悪的なだけだ。

 

「飲む、打つ、かわいい」

裏返せばぼくは自分が打ちのめされるために自分に鞭打っている。とことん汚い方法で、言い訳だらけの文脈で、誰もしあわせにできない情念で。

 

でもねえ。

ぼくはどうしてもドラマになりたい。

ドラマを目撃したいのでもつくりたいのでもなく、ある種ばかげた壮絶さを脇に抱えた、ドラマそのものになりたいんですよ。