キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

「踊る死体」

なんとなく
1日に1分くらい
きみのことを考えている
思い出さない日はないけれど
10分は言い過ぎだ

ベイビーフェイスもヒールもトゥ、からステップ
すっ飛ばされた夜にたくさんの嘘になりきれなかったことば
踊り続ける死体のような記憶たち
涙はうつくしくも醜くもなく、ただ無機質にあたたかいものです

ひとくち分だけ余した缶ビールと
ぼくの右手はつかの間同盟を結んだ
真っ暗な遊歩道、渡りきるまでは離れないよって
突っ立ったまま事切れた電灯の下、風がふいている

ミラノの夏、パリの秋、そしてベイジンの冬
きみのことを考えるようになったのはきっと
忘れてしまったからではなくて
幕間にふっと光が消える一瞬を
もう怖がらなくていいと腑に落ちたのだ

 

ワントゥ、よれよれのダンス
二の腕を拾って指先で口づける
爪痕は残っているからもうあまり強くは握らない
不完全な日々の連続のなか、血の流れる音だけ聞いていたい

 

気がつけばぼくは東京の片隅に佇んでいて
この街がどう滅びてゆくのか、考えていた
きみのことよりもすこし長く
夜をすっ飛ばして、ことばをすっ飛ばして
ディレイド、もつれた足が進む
ぼくもまた踊り続ける死体のひとつとして


涙はうつくしくも醜くもなく、ただ無機質にあたたかいものです
ただ、誰かの頬をあたためるためのものです

 

 

 

 

愛と和音

「感性とは手持ちのカードのようなもので、まだあるとおもっていても失われてゆく(大意)」

わたしが非常に感銘を受けた先崎学九段のことば。

 

3時半ごろまで夜っぴて原稿を書いていた。

それからコンビニへ行って、焼酎とたばこ、納豆にお粥、チョコレートとアルフォートという、やや錯乱気味な買い物をした。最近入った若いアルバイト店員は190センチになんなんとする偉丈夫で、とても無愛想だ。しかし誰だってこんな冷え込む晩秋の深夜にそんな買い物をしてゆくロン毛ヒゲの怪しい三十路男に愛想をふりまこうとはおもわないだろう。

自分の目が悪くてよかった、とおもうのは、こういうとき、彼の名札を読めないからだ。

もし仮に田中さん(仮)だとわかってしまえば、わたしのなかで彼は「無愛想な田中さん」として像を結んでしまう。

いまのままなら、他人のなかでもずいぶんと遠い存在としてすれ違ってゆける。

 

帰宅してしばらくすると、夜勤を終えた食客が帰ってきて、ラーメンをつくりはじめた。コンビニのVLの、安いラーメンなのだが、具はチャーシュー、メンマ、もやし、ネギと本格的(?)だ。

ちゃっかりチャーシューとメンマのお相伴にあずかった。

彼はずいぶんと疲れているようで、昼からも予定があるとのこと、それでもなんとなく人恋しくなっていたので、すこしばかり隣で焼酎をのんだ。

 

感性は共通言語のようなものだとおもう。

そのひとそのひとに、A(ラ)とかそれぞれ鳴っていて、それが仮に異なったキーでも、うまいこと和音になったりする。

もっとも、克明な言語表現として帰結はしないから感性という言い方をされるのであって、そこはcadenza、cadenza、cadenza……。

「その話前も聞いたで」と言われ、「忘れたぶんだけ楽しめるんだ」なんて強がりを言った。

なんの話かって?

「このひとべっぴんさんでしょ?」って話だ。

三十路の男ふたり、早朝にかたやラーメン、かたや焼酎でくだらない話。悪くない。彼とわたしの共通点は、きょう、おなじチャーシューとメンマを食べた、というだけなのだが、コード進行としてはじゅうぶん合っている(こういう適当なことをおもって言うからキクチバカオロカなのです)。

 

すっかり夜が明けていた。

エアコンの温度を上げる。

 

むかしは容易いように感じられた「自分を信じる」ということ、それが最近ではとてもむずかしい。

正確にいえば、それが過去をふくめたものの上に建っているのか、いま現在の自分を曇りない目で眺められているのか、ということでもある。

遠回りは悪くないが、非戦略的撤退ともいえる道草はほどほどにしておきたい。

 

まだ自分を信じているひとの顔をおもいだして、あらためて、自分を信じたい、とおもう。

自分を信じている自分こそ、まぎれもなく、いっとう格好いいのだから。

 

 

 

 

 

33歳

いささか旧聞に属するものの(10日)、33歳になりました。

 

当日は祖父、父母、妹夫妻、弟、叔母、イトコ弟とともに水炊きを食べにいった。

19時には寝たい祖父(「ボクちゃんおねむやから帰る」がパワーワード)を鑑み、「じいじタイム」で17時半から開始。

 

そのときの乾杯の挨拶をなぜかいまでも覚えているので、書きます。

 

「おかげさまでこのたび無事に33歳を迎えることとあいなりました。32歳の1年間はキクチ個人としては”冴えんなあ…”でしたが、10月末から運気も上昇してきまして、”菜の花はトウが立ってから花が咲く”とも申します。わたしもかくありたいものです。それではみんな、ご参集いただいてありがとう。乾杯!」

 

ヤン・ウェンリー提督の「1秒スピーチ」には劣りますが、われながら悪くない(元来が故・原田泰夫先生のような長っ尻の喋り好きなのです)。

 

そうそう。

10月末から、食客(男)が転がりこんできました。いつまでいるか未定です。

その話をしたとき、6歳年下でテニサー(という名の飲み会サークル)出身の弟が「古代中国みたいな?」と言ったのにびっくりしました。

「そうだよ、孟嘗君とか信陵君みたいな。もっとも鶏鳴狗盗じゃなくて部屋掃除してくれるぶんだけ日々役に立ってるけどね」と返したけど、まさかそれがパッと出てくるとはおもわなんだ。成長したね…。

転がりこんできた男は、居候というより食客と評するのが正しいような気がするので、これ以降もこういった表現をつづけようとおもっています。

 

翌11日。

10年以上まえに自分が主宰していた関西朗読詩人の勉強会「花形朗読詩人会"ENTA!"」(ネーミングが完全に茂山狂言のパクリです…)の再結成(?)イベントがありました。

当時20歳すぎ、紅顔の美少年だった最年少キクチも33歳。年長組はとうに不惑を超え。

けれど、みんな、いい歳のとりかたをしたなあ、きれいに歳をとったなあ、とおもいました。

当たり前のようでとってもむずかしいことだと、いまならわかります。

空き地で遊んでいるうち、つぎつぎ呼ばれて帰っていって、自分はひとりさみしく壁打ちでもしてると信じ込んでいたけれど、彼らが父や母になっても本然は変わらないのだな、と己が不明を恥じた。

いいライブでした。

わたしは「きょうは全編カヴァーをやります。chori(前名)の詩を」というMCでドッカン受けたのでそれも満足です。

会場でビール4杯、焼酎7杯ほどのんで、打ち上げで焼酎5杯くらい、それでたのしくなってしまってお客さんふたりを拉致して自宅で朝までのんでしまった。ふたりが帰ってからは帰宅した食客とまた昼までのんでしまった。やりすぎやーん。

 

きょうはとある打ち合わせでした。

10代のころからお世話になっているボスと、初対面のデザイナーの方と。

「打ち合わせ」と聞いていたけれど、実質打ち合わせらしき内容は10分で終わる、これはボスあるある。

3月のライオン」のあかりさんみたいに、若いもの(といってもわたし33歳ですが)がたくさん食べているのを見るのがすきなのでしょうね。

ファーストオーダーで6品も頼み、そこでストップをかけたからいいようなものの、ほうっておくとはてしなくいきそう(結果、10品くらいになりましたが)。

問題は、彼女は自分がそんなに食べないのに、目の前にたくさんごはんがあるとしあわせ!というタイプなので、小食のわたしのこともすこしは考えておくれ…ということです。

ただ、十年以上のつきあいなので、焼酎をアホのようにのみながら、もう粛々と、ふだんの1日ぶん以上の量をいただきました。がんばったキクチ。

血糖値があがり、帰ってきて3時間ほど呻いていましたが、生還してちびちび焼酎をのんでいます。やっぱりお酒は空きっ腹がいちばん。

 

そんな近況報告でした。

あしたのあたしはあたらしいあたし。

 

 

 

 

「光のようね」

月明かりにぼくはどっか

持っていかれちまいそうです

あなたとしたセックスのせいで

まだ骨が痛いや

 

さみしさも温かさに変わる

名前をつければすべての隙間が居場所になる

 

算数が苦手なので

この先のことは考えてない

細い夢が糸をひいて

続いてゆくだけ

 

うつむいたぶんだけ影は捲くられて

困った顔が光のようね

 

罪のない話半分で繰り返す泣き笑い

すこしだけ甘えたくなるぼくの

長い眠りの出戻り先に

なんとなく待ってくれているんでしょう

あなたはまるで光のようね

 

 

 

 

「人、人、人」

そのときのぼくはといえば
ほんとうに手首を切ったくらいで死ねるのか試して
痛かった、ほんのちょっとした切り傷が死んでしまいそうに痛かった
流れ出したレーテン何ミリリットルの血液は
存在証明をするにはあまりにも頼りなさ過ぎて
生きたいのか死にたいのかぜんぜんわからなくなってしまった

 

バビロン発銀河鉄道の切符をふっと買いたくなって
先に行ってしまった若い友だちのことをおもいだす
これからどれだけのことばを口にするのかわからないけど
今はありがとうとかまた会おうとかありふれたことが言いたい

 

死んだひとたちがあまりにもみんな星になってしまうものだから宇宙は光で飽和してる
誰でも新しい星を名づけることができるから、夜でもまるで昼のような明るさです
それにひきかえぼくの地上はどんよりと暗く濁って
会いたいひとに会える気もしないまま今、夏が終わろうとしています

 

ほどほどに生きるなんてできないね、とごまかして
かぎりなく開かれた現実とは逆方向にハンドルを切る
切れるような手首も身銭もカードもなんにも持ってないぼくは
笑っていた、待ちくたびれてもいないくせやってくる八月の夜明けに笑っていた

 

会いたくて会いたくて震える音楽も
日々の中に行くたびにお前を殺したいなんていう音楽も
結局のところ液晶画面の向こう側で誰かを安心させるだけなんだろう
そこに星は光ってますか、きらきらと光っていますか

 

見渡しても、見渡さなくても、ここにはむせかえるほどの人、人、人
やさしくなりたかったひと、誰かを笑わせたかったひと、なにかを否定したかったひと、大きくなりたかったひと、あと一日生きていたかったひと、昨日死んでしまいたかったひと、あなたに会いたかったひと、ことばをなくしてしまったひと、
見渡しても、見渡さなくても、ここにはむせかえるほどの人、人、人

 

河原町三条の交差点に立っているぼくは昔
プロ野球選手になりたかった
すくなくとも、今よりずっと格好いい何かになりたかった

 

明け方の街にもう星はみえない
あるいは、星しかない宇宙にもう隙間はない
いつかそのなかへ吸い込まれてしまうまでが不安だ
人、人、人波のあいだで

 

信号待ちのあの子の左手にも、ぼくの左手にも、
今はおなじ名前で呼ばれるためらい傷
たとえその内側でぼくらすれちがってさえいないとしても
ぼくらつながっているような錯覚におそわれている

 

消えてしまう前に花を飾ろう
あの子の左手に、ぼくの左手に
これからどれだけのことばを口にするのかわからないけど
今はありがとうとかまた会おうとかありふれたことが言いたい

 

 

 

*2011.8.3→2017.11.6rewrite

 

流れよわが涙、と霊能者は言った

体調をくずしてお酒ものまず、三食きちんと食べ、服薬し、ごろごろしていた。

 

台風とともにきのう突然居候までやってきた。掛け布団を持って。

そんな1日半を経て今朝起きるとなんだかもういつものバカオロカキクチ節が出て、「体調?知らない子ですね」となり、焼酎をあおりながら掃除、洗濯、そしてスーパーへゆき、自分のための朝昼兼用のごはんをつくった。

居候はわたしが寝入りばなだったゆうべ18時くらいからどこかへ出かけたっきり、いまだに帰ってこないので、「自炊派」という奴のために肉や野菜や加工食品はじめ一通りそろえ、バスタオル類なども盛大に洗う。基本的にチョロい。家賃は1ヶ月あたりハイライトメンソール1カートンである。愛みたいなものでできている。

 

さておき。

そんな1日半のあいだにポカリと生姜のど飴とパブロンだけが友だち(愛と勇気より多い)、布団にもぐるチョウチンアンコウと化したわたしはひさびさに本腰を入れて直近のG国(人狼BBS)のログ読みをしていた。

 

ところが、おどろいたね。

実際に自分もここしばらく体験していたのだが、G国おける霊潜伏ブームがおもいのほか巻き起こっていた。

霊潜伏といっても色々あって、少人数村では珍しくない、または鉄板の戦法といえる。ただ、フルメン(16人村)ないしそれに準ずる場合でもやたらと推すひとたちがいて、それも霊潜伏教徒というわけではなさそうだ(※人狼界には「霊ロラ教」「斑吊り教」など多種多様な宗教があるのです)。

これが自然な流れなのか判じ得ないけれど、なにかあるぞこれは。とおもった。トリ頭で暫時考えた。魚になったりトリになったりまったく忙しいな。

 

しかし、結局のところFO派(フルオープン=1dから占い師と霊能者を開ける=カミングアウトさせる進行)が相対的に減ってきたか、新規参加・流入勢(どうしても初手、第一声は様子見で占・非占COになりがち)が増えたか、「直近の村がこんなかんじだったから乗ろう」といった空気なのではないか、という結論に落ち着いた。

しかしよく考えたらそういうトレンドって2~3ヶ月タームではたしかにこれまでもありましたね。

わたしはFO教徒…までいかずとも在家信者くらいなので、わかるとは言えないが、わかってくれとも言えぬ。実際FOにしたって人狼ゲームの歴史的には新宗教みたいなものである。

 

霊能者はたいそう孤独な役職である。

確霊すればすればで半ば強制的にまとめをやらされ胃を痛めざるをえず(なぜならば1d時点では確定村側が他に出ることはない。対面だと事故で1-1とかもそこそこありますが)、複霊なら粛々とロラされるのを待つ、「ボロ雑巾」とも呼ばれるポジション。

なので「村PL(プレイヤー)」「狼PL」あるいは「狩PL」などというのはあっても、「霊大好き!!たーのしーい!!」そんな声はまず聞いたためしがない。たいていのひとは深夜台所でしじみのお味噌汁などつくりながらため息を漏らしているはずなのだ。

そう考えると、すくなくとも2dが終わるまでそういったプレッシャーなく、純灰としてゲームをたのしむ(たのしんでもらう)うえでは霊潜伏は(これは戦略の話ではなく、感情論です)悪くはない、とおもう。

 

しかし、これが、けっこうな割合で透ける。

霊潜伏のメリットのひとつに、たとえば「占い師が3COなら狩人は2dの護衛先が減る」があり、もし複霊になれば役職者5人中3人が人外なためロラってLWを見つければいい(なのでほぼ現れない陣形・確霊前提)というのがあり、それはとても大きなものなのだけれど、裏を返せば、2d襲撃先で潜伏霊ピン抜きされての乗っ取りという危険性がある。

単純に人数からの比率でいえばその可能性は低めとはいえ、初級者、あるいは中級者でも霊という役職もしくは霊潜伏に慣れていないと2日間もあれば透けることは少なくないのですね。クローンでの霊聖(霊共・霊鳴)ギドラにも言えることだけれど、このあたりは「宗教のひとが自宅に押しかけ布教にきたら、知識と文化水準の差がものをいう」by司馬遼太郎理論(ざっくり、相手より自分が強ければ恐るるにたらない。論破できる)かもしれない。

さらにいえば万が一1d占いに被弾してしまうと基本回避COとなるけれど、FOよりややこしくなる。あまりよい言い方ではないけれど「1日の推理、考察、議論が無駄になった」感を村に与えてしまうわけだから。

加えて潜伏霊が立会不可能、または接続環境に不安があった場合そもそも2d遺言(+α)がハマらない。

 

そういう点を掬うと、ある程度参加メンバー(のスキルや経験)がわかっている再戦村や身内村はともかく、現行のG国で、そのレギュレーションで霊潜伏を推すのは、なかなか難しいのではないか、とわたしはおもうのだった。

もっとも、かつて流行った「狼の沈黙時間」(1d夜明けに10~30分程度、全員表ログで発言せず、人狼に相談する余裕を与える。クローンからの輸入かしら)はプロで申し合わせもできるけれど、こちらはメタ推理を誘発しかねない、かなりデリケートな問題なので、事前の談合はあまり現実的ではなさそうである。

 

わたしは初参戦が2015年9月のG10編成、つまり「~に黒を出す占い師ではない」のやつだったので、やはり経験の少ないPLがどこかにいるかもしれない、ということを鑑みると、なるべくフルメン=FOでいきたいなあ、などとおもうのです。

「3年ROMれ」世代ではあったのだけど(あれ?1年だっけ?)、自分はそれを愚直に、すくなくとも人狼に関しては遂行したものの、結局10の実戦>3年ROMという実感があるので、よけいに。

そういう意味ではFOは中堅~ベテランには歯がゆいかもしれないけれど、特殊編成や特殊レギュのあるクローンは別として、ベーシックたるG国ならそれがいいんじゃないかしら、と愚考する最近です。

 

涙あまいかしょっぱいか。

 

 

 

 

鍋の中

わたしの実家では「お味噌汁の具はふたつ(お吸い物の場合は+お吸い口でみっつ)までというアンリトゥン・ルールがあり、それ以上になると「豚汁」「粕汁」「けんちん汁」といった別役職にジョブチェンジした。

例外として茄子のお味噌汁は茄子+煎りゴマ+辛子であったが、この場合は具+お吸い口ふたつなわけで理解できる。お吸い口とはつまりあれだ、柚子とか山椒の葉とかそういうもの。おつゆを啜るときに口元にあててその香りを楽しむわけです。うわーなんか精神性がブルジョワ

 

特に多かったのは、千切り大根。わかめ。しじみ。豆腐となめこ。玉ねぎとじゃがいも。といったあたりだろうか。

「わかめだけじゃ寂しいからおあげさんでも入れようか」といった類いの感性はわが家の台所にはなかった。ついつい「そういえば賞味期限のせまったナニナニもあるし」となることもおそらくなかった…とおもう。

 

もっともこれは昔話で、去年あたり実家で夕食を喫した際、レタスのお味噌汁が出てきて愕然とし、しかもそれをおいしいとも不味いとも言わずごく当たり前のように食べている家族に顎がはずれかけた。愕、顎と似ている。

話によればトマトとか、ナニナニとか、少なくともわたしには想像のつかない(料理として、ではなく、実家の献立として)具も一般化してきているらしい。主にこのあたりは嫁いでいった妹主導によるものが大きいようだ。そりゃそうだよね。なんでだか塩だけで岩塩やら抹茶塩やらカレー塩やら8種類取りそろえる家になってたし…(かつては食卓塩とアジシオのみだった)。

 

こういうわけだから、20代後半に同棲していた恋人がとにかく具だくさんのお味噌汁をつくるのにはびっくりしたし、「いや、それが仮に一汁無菜(with白米)ならわかるけれども、そのうえに豚の生姜焼きだの煮物だのなんだのがあるのは世界の均衡としておかしくないかね」とおもっていた。そんなふうにおもっていたせいか、ふられた。

 

そもそもわたしは汁物でお酒を飲むのがすきだ。

「いやーキクチさんまじそれ意味わかんないっす」と散々言われてきたが、20代前半からそうだった。もっとも後輩と行くような店に立派な汁物、椀物があるはずもなく、あくまで会話のうえでのやりとりではある。

深夜、おもいたって自分でつくるような、ざっかけない品であれば、その相手は焼酎で充分。けれど、ほんとうにおいしい汁物(この場合は8割方お吸い物を指すわけだが)に出会うと、ふだん飲みつけぬ日本酒をぐいぐいやってしまう。やっぱり、あるんだなあ、血と水のような脈絡が。

 

ただし、わたしのつくる汁物は味噌でもお清ましでもなんでも大抵は昆布とアゴで出汁を取り、酒のみ用にいささか辛くしている。おまけに一度に食べきるわけではないから徐々に煮詰まり、具に味も染み、カサも減る。

汁物の汁物たる尊厳を冒している気分だ。

 

けれど、じわじわと、そんな鍋の中を覗いているのが、たまらなくすきだ。