キクチミョンサ的

「なれのはて」ということばがよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ

なごやかな狂騒

1月6日。

体調がファンタスティックすぎて午前中から何度もちいさく死んだり生きたりしていた。どうせ斃れるなら前のめりで、とウィスキーを呷る。なぜか楽になる。こう、ぎりぎり手がとどかない距離に置いてある何かを取ろうとしているが、ひょんな拍子に手がとどいちゃったかんじ。

1時間ほどはやく集合場所のVOXhallへむかい新年初ハートランド。まこっさん、おのまん、花柄ランタンのおぼうと駄弁ったりしつつ「将棋昭和史」など再読。賞味期限切れのどうぶつクッキーをもらう。なんだかんだいって、ぼくにとってnanoが実家なら、VOXhallは祖国みたいなものであるなあ、とおもう(どちらが濃い薄いとかいう話じゃないですよ、念のため)。

 

18時、村島、マルさん、ゲンさん登場(彼らはスタジオに入っていたのだ)。てっきりマルさんがサックス吹いてるのかな、なんて最初はおもっていたのだけれど「練習観戦」していたとのこと。なにその新手!

4人で「ここら屋」。なんだかすごく、ここら屋にいきたくって、半ば無理やり「おすすめっすよ!!」と巻き込んだ感はなくもない。鴨わさが食べたかっただけ説もあり。

とはいえ、ここは飲みものも食べものも提供スピードが速い。近くには店主ひとりでやっている魚のおいしい(しかも安い)店もあるのだが、いかんせんその都合上、混んでいるとディズニーランドになってしまう。あ、これ蛇足ながら、たとえばそういう店を「だから行かない」「好きじゃない」などと評するのは勝手だけれども、「だからいい店じゃない」とぶった切るのは品が悪い。わかったうえでつきあうものだ(と新年えらそう初め)。

そろそろ河岸を変えようか、というタイミングでいなめさん合流。将棋クラスタの方に簡略に説明すると、インディーズ音楽界のオジサン(※固有名詞)みたいなひとである。旧交をあたためる。ビールは冷えている。

 

つづいて「CAPO」。ここはわたしのこころのオアシスに近い。正確にいうならば、オアシスの木陰が見えてきたぞというときの安心感だろう。もっとも「お前砂漠でもそれ言えんの?」と問われれば、いや、自信がない。キクチ、超町っ子だから。旅行とかもいかないインドア派だから。比喩表現とはかくもはかなく、かなしいものなのだ。

正直に申し上げると、もうこのあたりから記憶はない。記録にものこらず、記憶ものこらず、な一夜。いいじゃないか。ただここまではまだビールばかりのんでいた気が…いや、「いちばんかわいそうな子(CAPOでよくわたしが言うのだが、つまりいちばん残っている焼酎のことである)を」と発語したような舌触りはいまだあるので、焼酎をいってしまったかもしれない。いやたぶんいった。きっとそうだ…ウッ、頭が…。

 

そして三軒目。

どこかもふくめて、なーんも記憶がない。

焼鳥が出て来たような気はする。あれは夢かまぼろしか。夢かまぼろしかわからないつくねのおいしさだけおぼえている。このブログは原則口述筆記レベルのスピードで推敲せず書いているとはいえ、自分でいま自分にツッコミました。「どっちやねん」

あとは先輩方に支えられて無事帰宅。泥酔して小腹がすいたのか、うどんを茹でようとして賞味期限が5日前に切れていたことに気づく。キクチはそういうのに潔癖なので、とたんに怒髪天をつき、転んだ。なぜ転ぶ(※酔っていたからです)。チクショウ、とかなんとかいいながらうどんをゴミ袋にぶちこんで失神同然でねむった。

 

マルさんの話でとても感動したのは「やっぱり甘酢餡より醤油餡のほうがおいしい(すきだ)」というものだった。兵庫出身、京都で学生生活を送り、現在は東京在住のマルさんの舌はわたしと似ていた。キクチも生粋の京都人として、あんかけは醤油餡にかぎる。いや、甘酢は甘酢でおいしいと感じるので(そして、ときたまむしょうに食べたくなる)「かぎる」は言い過ぎだろうけれど、これは牛肉豚肉問題(われわれはカレーだろうと肉じゃがだろうとカツだろうと「牛」である。つまり「ポークカレー」「トンカツ」などと呼称し区別する。豚は有徴の存在なのだ)などともからんで、抜きがたい「風土」というものの重さを連想させる。あ、食べものの話だから風土…ってわけじゃないです…今度は嘘じゃないっす。

 

三軒目でマルさんからキャップをもらった。ヤンキースのキャップ。本物パチモノは別として、おそらく、世界中で何千万個とかぶられているであろう、オーソドックスな、誰もが一度は目にしたことがあるであろうキャップ。

(追記※マルさんのキャップはヤンキースタジアムで買った本場中の本場ものである。そういうとこじゃなくって、文脈は「。」で切れているはずなのだが、そうでない受け取り方もありうるなとおもったので、念のため)

 

でもわたしはそれがマルさんの手で自分の頭にかぶせてもらったことがとてもうれしかった。オーバーに聞こえるかもしれないが、御池通りをガッツポーズしながら木屋町から堀川くらいまで走りたいほどうれしかった。「がんばれよ」より「見守ってるぜ」ってかんじの、さっきまでかぶっていたマルさんの体温がまだのこっていた。

詩人はときとして無意味に過剰な饒舌を好むが、ああ、マルさんは大人の男だ。そしてかっこいい大人の男だ、とおもった。

 

マルさんは「正しい目」と「自分の目」をともに持っていて、世界(目にうつるものや聞こえることなどすべてをそう呼ぼう。だからこれは「正しい耳」「自分の耳」と言い換えてもかまわない)を複眼で受け取り、解釈し、分け入ってゆく。なかなかできそうでできないことだ。こんなバカオロカキクチが言ってもなんの説得力もないが、世界と真正面から向き合うのは、とてつもなく疲れる。傷つく。片目くらいはつむっていたいし、もう片方の視界も、できればうすぼんやりしていたいものだろう。

それはある意味で自然な防御本能、自己保存本能だとおもうけれど、それでは見えないものは多々ある。そのせいで見えなくなってしまう事物が多々ある。

 

マルさんの目はけっして大きくないが、それがとらえている真理は深い。

正しさの重みはそれそのもの自体にではなく、運用する人間の規矩にある。